「巨怪伝 上 正力松太郎と影武者たちの一世紀」(佐野眞一、文藝春秋、2000年5月)には、のちの警視総監になるのは間違いなしといわれた警視庁時代の正力松太郎と、大正十二(1923)年九月一日の関東大震災直後の朝鮮人大量虐殺事件について、こういう記載がある。
「朝鮮人と社会主義者を虐殺する引き金となった悪質なデマについての正力の発言は、相当混乱をきわめている。御手洗本を読むと、『一笑に付して打ち消さして回った』という記述があるかと思えば、
<……この嗤うべき流言は一日の夕方ごろから、中野・淀橋・寺島の各署から警視庁へ報告された情報から始まっている。事件の衝動から人心不安なところへ、誰かが怯えた想像をもって『ありはしないか』といった話が火元となって数人の間を転々する中、いつの間にか、『あった』となり、『見た』となり、いわゆる一犬虚に吠えて万犬実に伝えるとなったものに相違ない。非常識でもあれば臆病でもあるが、警察情報となると幾分の権威をもってくるから信じられてくる。>
と流言蜚語に一定程度警察の関与があったことを認める発言もしている。
また、『悪戦苦闘』(※『正力松太郎・悪戦苦闘』(大宅壮一編、早川書房、1952年11月))のなかでは、
『朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗しました。警視庁当局者として誠に面目なき次第です』
と、意外とも思える率直さで詫びている。
関東大震災下における正力の混乱した言動の謎を解く上で、内務省出身で当時、東京朝日新聞営業局長だった石井光次郎が残した証言はきわめて興味ぶかい。
当時朝日新聞の本社は滝山町(現在の銀座六丁目)にあった。建物は倒壊しなかったものの、九月一日の夕刻には、銀座一帯から出た火の手に囲まれ、石井以下朝日の社員たちは社屋を放棄することを余儀なくされた。
夜に入って、石井は臨時編集部をつくるべく、部下を都内各所に差し向けた。帝国ホテルにかけあってどうにか部屋を借りることはできたが、その日、夜をすごす宮城前には何ひとつ食糧がない。そのとき、内務省時代から顔見知りだった正力のことが、石井の頭に浮かんだ。石井は部下の一人にこう言いつけて、正力のところに走らせた。
『正力君のところへ行って、情勢を聞いてこい。それと同時に、あそこには食い物と飲み物が集まっているに違いないから、持てるだけもらってこい』
間もなく食糧をかかえて戻ってきた部下は、意外なことを口にした。その部下が言うには、正力から、
『朝鮮人が地震が起こる九月一日にむけて謀反の計画を立てていたという噂があるから、各自、気をつけろ。君たち記者が回るときにね、あっちこっちで触れて回ってくれ』
との伝言を託されてきたというのである。
そこにたまたま居あわせたのが、台湾の民政長官から朝日新聞の専務に転じていた下村海南だった。下村の『その話はどこから出たんだ』という質問に、石井が『警視庁の正力さんです』と答えると、下村は言下に、
『それはおかしい』といった。
『地震が九月一日に起こるということを、予想していた者は一人もいない。予期していれば、こんなことにはなりはしない。朝鮮人が、九月一日に地震がくることを予知して、そのときに暴動を起こすことを、たくらむわけがないじゃないか。流言蜚語にきまっている。断じてそんなことをしゃべってはいかん』(中略)
正力は少なくとも、九月一日深夜までは、朝鮮地震暴動説を信じていた。いや、信じていたばかりではなく、その情報を新聞記者を通じて意図的に流していた。
歴史学者の松尾尊~が書いた『関東大震災下の朝鮮人虐殺事件(上)』という論文(「思想」昭和三十八年九月号所収)に、関東大震災当時、戒厳司令部参謀だった森五六の回想談が紹介されている。これは昭和三十七年十一月二十一日、森が京大人文科学研究所で講演した内容を筆録したもので、その談話のなかの正力の言動は、完全に常軌を逸している。
このときの森の証言によれば、正力は腕まくりをして戒厳司令部を訪れ、『こうなったらやりましょう』といきまき、当時の参謀本部総務部長で、のちに首相となる阿部信行をして『正力は気がちがったのではないか』といわしめたという。
これが何日のことだったのかは特定されていないが、その後の事態の推移からみて、戒厳令が発布された当日の九月二日とみて、まず間違いない。最近の研究では戒厳令の決定は九月一日夜半になされた公算が大きいといわれているので、あるいは一日の夜だったのかもしれない。
いずれにせよ正力は、少なくとも大地震の直後から丸一日間は、朝鮮人暴動説をつゆ疑わず、この流言を積極的に流す一方、軍隊の力を借りて徹底的に鎮圧する方針を明確に打ち出している。(中略)
正力自身も認めるように、朝鮮人暴動の流言は、一部、警察当局自身から流されたものだった。この『幾分権威をもった』流言は、家財産を一瞬にして失い、すさみきった被災地の人心に、砂地に水が沁みこむように、たちまち浸透していった。各地の自警団、在郷軍人会、青年団は、竹槍や鳶口を手に手に取り、朝鮮人とみると警察につきだし、あるいは自ら手を下して虐殺した。(中略)
九月七日、政府はようやく重い腰をあげ、『流言浮説ヲ為シタル者ハ、十年以下ノ懲役若シクハ禁錮又ハ三千円以下ノ罰金二処ス』という、いわゆる流言浮説取締令を公布した。
治安維持令とも呼ばれるこの緊急勅令は、一見すると、九月一日以降、流言蜚語を伝播するままにまかせた政府当局が、自らの反省を込めて発令したかのようにみえる。しかし歴史学者の今井清一が『歴史の真実――関東大震災と朝鮮人虐殺』のなかで述べているように、この勅令は一面、
<逆に流言、迫害、虐殺の真相を糾明して政府や軍部を批判するいっさいの言論報道を抑えつける>
という目的をもっていた。震災のどさくさにまぎれて出されたこの勅令は、それから二年後の大正十四年に施行され、日本共産党など社会主義運動を弾圧する上で最強の武器となった、悪名高い治安維持法の先駆け的法令だった」
そして、晩年の正力を描いた「巨怪伝 下」には、こういう記述がある。
「正力は晩年、仏教の世界に急速にのめり込んでいった。よみうりランド内に、釈迦の遺髪を祀った壮厳な霊殿を建造し、聖地公園と名づけられたその敷地内に、セイロンから運んだ仏舎利塔を建立した。(中略)
柴田は生前、正力のこうした仏教への急傾斜は、警視庁時代、オトシ(自供)の名人として何人もの人間を死刑台に送りこみ、それによって出世街道を驀進していった正力のせめてものつぐないではなかったか、と語った。
正力の長女の梅子は、逗子の家の庭に敷きつめられた石を、なにかにとりつかれたように磨く晩年の正力の後ろ姿を鮮明におぼえている。それは朝鮮から送られてきた石で、尻っぱしょりした正力は、この石を黒ずませてはいけないと、タワシを持ち出し必死で磨いていたという。
このとき正力の気持ちのなかには、関東大震災下で虐殺された朝鮮人に対する贖罪の思いが、あるいはあったのかもしれない。
この頃から正力の肉体は目に見えて衰弱していった」