2017年01月15日

『民主主義の危機』とプラトンの言葉

 平成二十九年一月六月付、のauのニュースサイト


   EZニュースフラッシュ増刊号の「朝刊ピックアップ」で記事 


 「『民主主義の危機』とプラトンの言葉」


 を企画、取材、執筆しました。




 最近の諸情勢を観るにつけ、「民主主義の危機」を感じる人々は多いに違いない。メディアの記事にも、そうした論調が目立つようになってきた。例えば、14日付のロイター通信電子版の記事「コラム 停滞する民主主義、見限るのはまだ早い」には、こうある。

 「2016年は民主主義の限界と欠陥がはっきりと露呈した1年となった」「今年、欧州で経験の乏しい2つの大国が国民投票を実施し、それぞれの政府が推奨していた政治的選択が却下された。英国民は欧州連合(EU)からの離脱を選択し、イタリアでは憲法改正が否決された。その結果、イタリアのレンツィ首相、英国のキャメロン首相が辞任した。イタリアでは第2次大戦後以降、英国では何世紀にもわたり、国会が最高立法機関として位置づけられている。

 国民投票は今や、ポピュリスト政党のお気に入りの手段となっている。こうした政党は、民衆の反発を利用し、これを誘導することができると信じているからだ。これこそが民衆の声、そうではないのか、と。」

 「一方、独裁主義は復権を果たしつつある。

 ロシアのプーチン大統領が米タイム誌の『今年の人』候補に選ばれたのは、ウクライナ、シリア、そしてロシアにおいて(いかに暴力的なものであれ)成功を収めていることへの評価であり、世論調査によれば依然、圧倒的な国民の支持を得ている。プーチン氏同様、高い支持を集める独裁的リーダーとしては、中国の習近平主席、トルコのエルドアン大統領、フィリピンのドゥテルテ大統領などが挙げられる」

 とこのように記している。

 また、11日付朝日新聞朝刊の1面トップに「試される民主主義」「我々はどこから来て、どこへ向かうのか」という記事が載っている。記事は冒頭、「民意が暴走しているようにみえる。民主制の先輩である欧米でも次々と。これは民主主義の失敗なのか」とあり、本文には、こう書いてある。

 「そもそも歴史をさかのぼれば、民主主義は『危険思想』とされていた。東京大学の森政稔教授(政治思想史)はそう説く」「『トランプ氏のようなポピュリズムは、本来はバラバラの人たちの中に、無理やり多数派を作り出す。敵を名指す虚構の言葉で人々を結集させる。これは、民主主義が持つ危うい側面です』と森教授は言う」

 ちなみに、現代民主主義の「源流」である古代アテネでは、いまから2500年前から、民主政治が行われていた。その時代を生きたプラトンは、民主政治について、こう述べている。(以下、「プラトン」(著: ジャン・ブラン著/: 戸塚七郎訳/白水社)より抜粋)

 「寡頭制は居候や放蕩者やぐうたら者の出現を助長した。そしてついに『貧乏人がその敵に打ち勝って、ある者は殺し、ある者は追放に処し、そして、残った連中で平等に国制や行政の職を分配する時、民主制が確立する。またそこでは、しばしば行政の職すら籖によって決められるのである』(五五七a、※筆者注、以下、漢数字のページ表記は『国家』八巻より)。このような国制の合い言葉は自由であり、そこでは誰もが自分の気に入った種類の生活を送る。『しかし、この国家においては、たとえその能力があっても、命令することを強制されないし、それを欲しなければ服従することも強制されないということ、また、他人が戦争をしている時でも戦争するように強いられないし、もし平和を少しも望まないのなら、他人が平和を守っていても、平和を守るよう強いられることもないということ、また他方、君がひょっとしてその気になるならば、法が支配や裁判を一切禁止しようとも、命令したり裁いたりしてもよいということ、このような生活は、さしあたり、この上なく素晴らしく楽しいことではないかね。……』

 「『好ましく、そして無政府的で種々雑多な彩どりを持ち、等しからぬものに対しても、等しいものと同じように一種の平等を与える』この国制は、権威のはなはだしい危機を示している。

 民主制的な人間は、自然的でもなければ必要でもない快楽に関心を寄せ、『くる日もくる日も、目の前に現われる欲望を悦ばすことで過ごしている。つまり、今日は笛の音に耳傾けて酔いしれ、明日は水を飲んで痩せ細る努力をする。またある時は体育に精を出し、ある時はのらくらして何ごとにも無関心である。また時折は、哲学に没頭しているように思われることもあるだろう。また、しばしば政治家となり、演壇に飛び上って、たまたま思いついたことを何でも言ったりしたりする。またある時は、軍人というものが羨ましくなり、そちらの方へ向って行くが、ある時は商人が羨ましくなって、商売に身を投ずる。一口に言えば、彼は自分の行為の中に秩序も必然性も認めていないのだ』(五六一c)」

 そして、この民主政の堕落が、「僣主制」を現出する、とプラトンは指摘している。

 「民主制を僣主制にやがて堕落させるのは、それ以外のすべてに対する無関心な態度から生じたこの善に対するあくなき欲望である。自由に対する貪欲は放縦と無政府状態を誘い出し、支配者は嘲弄され、親父は自分の息子を対等に扱い、かつ息子を恐れることに慣れ、また息子はもはや父親に尊敬の念を抱かず、教師は生徒を恐れてへつらい、生徒は自分たちの先生を軽蔑する。このようにして、『過度の自由は、個人の場合でも、恐らく過度の隷属以外のものには帰着しえないであろう。……それゆえに、当然、僣主制は民主制以外のどんな国制からも生じてくるのではない』(五六四a

 その時、人々は自分たちの気に入った者を頼りにし、そのものを自分たちの先頭に立て、養育して力を強くしてやる。この僣主は『絶えず戦争をひき起こすが、それは、人々が指導者を必要とすることを意図してのことであり、……さらにまた、市民たちが税金のために貧乏になって、止むをえず日々の糧に気をとられ、自分に対する謀反の企てが少なくなるためである』(五六六e)。いつも戦いをひき起こさなければならないから、僣主は、自分がその憎しみの的となるような市民たちからわが身を守るために、個人的な護衛を持つことも必要である。相当の給料を払ってやれば、警護の任につくために到る所から志願者がやってくるであろう。また彼は、自分自身と自分の政治とに対する讃辞を、報酬を払って詩人たちに書かせるようにさえなるであろう」

 ではどうすればよいのか。プラトンは、「理想的国家」を志向している。

 プラトンはそのために、「特に教育に関して、多数の細目を示している。軍人たちの教育は体育と音楽によって規正されなければならない。しかし、好き勝手な種類の音楽や、好きな型の楽器を選ばせないことが肝要であろう」「作家の活動も仔細に監督されることになろう。まず第一に、“よい”物語だけを作品の中に留めおくよう物語作家を監督し、とにかく子供の魂を形成する目的で、乳母にその物語を用いさせることが必要となろう(『国家』二巻三七七c以下)。

 「求めなければならないのは、『美しいものや、上品なものの本性を追い求める才に恵まれた芸術家たちであろう。それは、若者たちが、ちょうど健康的な地方の住人のように、あらゆるものから利益を得るためである。つまり、どのようなところからにせよ、とにかく美くしい作品から出た芳香が彼ら若者たちの視覚や聴覚を打ち、彼らがそれをあたかも微風のように、すなわち健康的な地方から健康を運んできて、彼らが子供の頃から、気づかないうちに美しいものを愛し、それを模倣し、彼らと美しいものとの間に完全な調和を置くようにしむける、微風のように感ずるためである』(同書四〇一c)」

 「理想国家の支配は、哲学者によって確固たるものとされるであろう。なぜなら、哲学者だけが真理と幸福とを知っているからである。哲学者は知への情熱に燃えている。彼は真摯で、節制的で、貪欲なところがなく、優れた記憶力に恵まれている。しばしば、哲学者は国家にとって無用であると言われるが、だがその責任は、彼らを用いることができない人々に向けられるべきであって、知者自身に向けられるべきではない(同書六巻四八九b)。それゆえに、哲学者は国家の生存に欠くことのできない者である」

 国家の未来の指導者に対する教育として、「まず第一に目につくのは算術で(同書七巻五二二c)、これは魂に叡知のみを用いさせ、かくして真理をそれ自体として獲得させるという優れた長所を持っている。事実、数が理解されうるのは、ただ思考のみによってであって、どんな方法によってでも、感覚でもってそれを取り扱うことはできない(五二六ab)。次は幾何学であるが(五二六c)、それは「常に有るものの認識」であるから、魂を感性界から解放して真理へ導いて行くのに適している(五二七b)。天文学は魂を導いて行って上方を眺めさせる学問で、存在と不可視なるものとをその対象としている(五二九b)。この学問は、認識は感覚的なものを何一つ持たないという考えをわれわれに確信させる。最後に、哲学者は調和の学(それは音楽であるが)を学ぶことになるだろう。

 しかしながら、これらの学問はすべて最高の知識の、すなわち弁証術の序曲にすぎない。幾何学やそれに関連する学芸は、存在をただ夢の中で認識しているだけである。弁証家とは、すでに見たように、あらゆるものの本質の認識に達している者であって(五三四b)、彼のみが万物に及ぶ“綜観”(synopsis)を所有しており(五三七c)、この綜観が善のイデアの光によって世界を見ることを可能にしているのである。」

 なお、プラトンのいう理想的政治は、ただ一人が支配するところから「君主制」、あるいは「貴族制」と呼ばれるが、同書は、「貴族制」は適切ではなく、「むしろ優者制と言わるべきであろう。すなわち、この国制においては、多数の中で、知識においても戦事に関しても、優秀であることを認められた者が王になるのである」と指摘している。

 プラトンの洞察は、現代にそぐわない点はあるにせよ、参考になる点はあるに違いない。(佐々木奎一)


posted by ssk at 15:12| Comment(0) | 記事
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