2016年10月10日

政教分離違反と池田大作党 三


なお、信者を大別すると、上記の、選挙で現世利益を強欲を欲する浅ましい層と、もう一つ、池田一神教に脳髄まで染まっている層がある。
 脳髄まで染まっているのは、コアな信者で、幹部になるケースが多い。
 池田一神教に脳髄まで染まる、というのは、具体的には、池田大作のために生きる、と大真面目に考えている信者である。
 たとえば、信者たちは、当然、この国でいろんな仕事をしているわけだが、その仕事も、池田大作のために、やっている。
 たとえば、文筆業であれば、池田大作のために、書く、という具合だ。池田大作のために書く、というのは、たとえば、池田大作の礼賛を、学者等の識者に言わせたりする記事をのせる、といった、見え透いた提灯記事を、自分の職場の媒体で載せる、などだ。文筆に限らず、あらゆる業界で、そういうことをやっている。
 そして、信者の集まりでは、職場で池田大作を礼賛するために、こういうことをしました! といった類の報告を誇らしげにして、ほかの信者たちから拍手喝采で、ほめられ、羨望の眼差しでみられたりしている。
 こうした池田大作を絶対的価値としている信者にとって、選挙は、池田大作のために、ある。国民のために、ではない。
 連中にとっての、「選挙」=「法戦」は、ISやアルカイダの「ジハード(聖戦)」と同じである。実際、池田教のコアな幹部が、そう言っていた、という情報もある。
 「ジハード」については、鳥越俊太郎氏が、2015年7月1日の衆院平和安全特別委員会で、こう説明している。
 「イスラム教の中でジハード、聖戦。僕は、子どもからお母さん、一般の兵士も含めて全部取材をしましたけど、彼らは心から、ジハードで命を捧げた場合は天国に行けると思っている。だから自爆テロを平気で起こす」
 コアな池田教信者の理想もこれと一緒。つまり、ジハードである法戦=選挙で、集票マシーンの権化となり、末端信者に号令をかける。それは、池田大作のために票を捧げ、池田大作のために生き、池田大作のために死ぬ。池田大作のためだけに、この世に存在し、脳内から全身くまなく池田大作に染まった、池田狂信者になることを本気で目指している。そうやって生き、そうやって死ねば、「成仏(ジョウブツ)」できる、と真剣に思っている。法戦=選挙で票を集めれば、ジョウブツできる、と本気で思っている。
 なお、こういう狂信者たちは、池田教とはかかわりのない常人に対しては、こういう本音は一切くちにしない。まるで狂信者でないかのように振る舞う。だから、いまだに池田教のことを、平和の団体などと誤解している人が多い。平和な団体などというイメージは、建前の部分でしかない。
 そんな池田教団が、「理性的な討論」などできるわけがない。
 現状、池田教のこのカルト票が、日本の政治を席巻している。池田大作一神教原理主義の池田教は、民主主義と相いれない。民主主義の敵である。

posted by ssk at 11:16| Comment(0) | 連載
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