前回の記事で、「政教分離の根拠」には、第一「信教の自由の保障」のほかに、第二「宗教の腐敗・堕落の防止」、第三「民主的な政治過程の維持、あるいは政治的分断の防止」があることを紹介した。
そして、この第三には、「およそ民主的な政治過程とは理性的な討論によって支配されるべき場であり、宗教はそもそも理性的な討論になじまないのでこれを排除すべき」、「民主的な政治過程は必ずしも理性的な討論が支配する場ではなく、様々な利益集団が互いに妥協しつつ利害調整をする場と見るべきであるが、宗教は絶対的な価値を主張するので、この妥協を困難にし、政治的な分断をもたらすので、やはり排除されるべき」という、2つの意味があることを紹介した。(「新基本法コンメンタール憲法」(編集:芹沢斉、市川正人、阪口正二郎/日本評論社刊)より)
このなかの、「宗教はそもそも理性的な討論になじまない」「宗教は絶対的な価値を主張する」というのは、まさに池田大作一神教がそうである。
たとえば、池田教団は、選挙のことを「法戦(ホウセン)」と言っている。法というのは、池田大作教のいわくところの仏法を指す。
(なお、司馬遼太郎氏は、池田教は「致命的なところで仏教じゃない」と断言している。司馬氏は「ふしぎなことに日本の各時代をにぎわす新興宗教というものが、多くは日蓮宗から出ていますね。現存しているものにも本門仏立講、霊友会、創価学会……みんな日蓮宗から出ている。ただ創価学会にいたって、初めて利益ということを掲げた。お釈迦さんは利というものを捨てたところから出発している。ところが創価学会というのは利を説く。(略)利を説く以上、これはもう仏教じゃない。致命的なところで仏教じゃない」と述べている。(「司馬遼太郎対談集 日本人を考える」(文藝春秋刊)の梅原猛氏との対談より))
その意味で、池田教は仏教を騙るカルトであるわけだが、池田教のいう法戦というのは、宗教戦争、といったニュアンスがあると捉えることができよう。
実際、こういう記事がある。池田大作教をウォッチするFORUM21の記事「特集/くり返される異常な創価学会の政教一体選挙 参院選直前、本部幹部会発言にみる政教一体構造」(2004年7月15日付)によると、池田教は、選挙をこう捉えているという。
「・選挙の勝利を宗教的正当性の根拠とする。
・選挙を「仏敵」打倒の「法戦」とする。
・選挙を教勢拡大の「バロメーター」とする」
実際、参議院選挙の公示を間近にした6月15日に東京・千駄ヶ谷の創価学会施設・国際友好会館で行われた本部幹部会という教団の集まりで、池田大作ほか幹部連が、こう発言した、として、音源を文字に起こしている。
それによると、冒頭、「いよいよ創価の新時代を開く決戦が目の前に迫りました。全国の男子部はこの戦いの先陣を務めることを誇りとして、乾坤一擲の勇気の対話を猛然と重ねています。家族のこと、仕事のこと、いまの時代に悩みがないと言えばウソとなる。しかし、大いなる希望を胸に、いまこそ壁を破るチャンスだと、信心で立ち、勝ち越えながら、みなが歓喜の前進を重ねています。」(弓谷男子部長)と、信者たちに、集票マシーンとして活動すれば、仕事や家族などの悩みを解決できる、選挙は悩みを解決してハッピーになるためのチャンスなんだ、と、さかんに現世利益を説いてハッパをかけている。
選挙で信者の欲望を煽りて、権力欲を満たそうという、欲望の塊のカルト教団。これを仏教という自体、いかに釈迦をバカにした連中かがわかる。