2016年10月04日

政教分離違反と池田大作党


 いうまでもなく日本国憲法第二十条「信教の自由」には、こうある。
 「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
A 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
B 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」
 とある。
 このなかの、第1項、「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」という政教分離の原則の一文に、公明党こと池田党と、創価学会こと池田教は抵触している、憲法違反なのではないか、という指摘は、以前からある。
 たとえば、20年数年前、自民党は、故加藤紘一氏が中心となって、四月会という団体をつくったりして、池田教団とコウメイトウが政教分離である、として国会内外で徹底追及した。
 このとき、池田教団は、加藤氏を鬼畜のように罵り、お決まりのセリフ「仏敵(ぶってき)」を口にして加藤氏を口汚く罵っていた。
 だが、加藤氏といえば、山崎拓元副総裁が先般、「君は『憲法9条が日本の平和を守っているんだ』と断言した。振り返ると僕に対する遺言だった。日本政界の最強最高のリベラルがこの世を去った」と悼むほど、リベラルな人物。そういう人物が、暴論を通そうとするわけがない。
 政教分離に抵触しているのではないか、と批判されるたびに、池田教団は、政教分離というのは、国家が特定の宗教を国教にしたりして、その他の宗教を排除する、といった、国家による宗教への介入を違憲とするものであり、宗教団体が政治団体をつくって政治に参加するのは何ら構わない、という意味合いの内閣法制局の答弁を持ち出す。
 たとえば、池田党のHPのQ&Aには、「Q 公明党と創価学会の関係は?」「A 政党と支持団体の関係です。各政党を労働組合や各種団体などが支持する関係と同類です。公明党と創価学会は不定期で「連絡協議会」を開催し、協議内容はマスコミ公開されています。一部週刊誌等で「政教一致だ」とか「憲法20条に違反した関係にある」等の記事が掲載されることがありますが、全く的外れな批判であり、既に国会の論戦の場でも決着済みのことです」とあり、こうある。
 「そもそも、憲法が定める「政教分離」原則の意味は、憲法が宗教団体の政治活動を禁止しているということではありません。内閣法制局は「憲法の政教分離の原則とは、信教の自由の保障を実質的なものとするため、国およびその機関が国権行使の場面において宗教に介入し、または関与することを排除する趣旨である。それを超えて、宗教団体が政治的活動をすることをも排除している趣旨ではない」(大森内閣法制局長官の国会答弁趣旨=1999年7月15日)としています。 憲法が規制対象としているのは、「国家権力」の側です。つまり、創価学会という支持団体(宗教法人)が公明党という政党を支援することは、なんら憲法違反になりません。 国家権力が、ある特定の宗教を擁護したり、国民に強制するようなことを禁じているのが「政教分離」原則です」
 このように、なにかといえば、まるで水戸黄門の印籠のように、内閣法制局長官の答弁を持ち出す。
 そして、上記のように、池田党は「各政党を労働組合や各種団体などが支持する関係と同類」と、戯言をぬかしているが、無論、池田教と、労組やこの国の様々な政治団体は、一線を画す。例えば、労組は、かつて社会党という政党の支持母体だったが、社会党が今までいってきたことと違うことをし始めた、と支持者たちが思い始めた途端、社会党は一気に支持を失い、崩壊した。自民党の支持団体の人々は、かつて、「お灸をすえる」といって、自民党を野党に転落させた。こうやって有権者が選挙権を駆使して選択するのが、選挙というものである。
 だが、池田教団の信者たちは、池田党が、イラク戦争に賛成しようが、集団的自衛権を容認する解釈改憲を閣議決定して法律をつくろうが、憲法を壊憲して人権を制約しようが、戦争できる国にしようが、池田党に投票し続ける。その結果、池田党が何をやっても選挙の得票数にほとんど影響しない、という異様な現象が起きている。
 つまり、通常の政治団体は、支持政党を相対的に評価、支持するのに対し、池田教団は、池田コウメイ党を絶対的に支持する。これは選挙を、宗教行為としているためである。つまり、池田コウメイ党のやり方に疑いをはさんで、投票しない、というのは、信心が足りないからだ、罰が当たるぞ、逆に池田党に投票して周囲の人々にも勧めれば功徳がある、現世利益があるぞ、という、世界である。だから、どんなに悪政を重ねようと、池田教は、池田コウメイ党に投票し続ける。
 池田教の今のような状況をつくらないために、憲法に、政教分離を定めたのではないか。このように筆者は常々、思っているのだが、「新基本法コンメンタール憲法」(編集:芹沢斉、市川正人、阪口正二郎/日本評論社刊)の、第20条には、「政教分離の根拠」という小見出しで、こういうふうに書いてある。
 「政教分離は、政治と宗教の分離を求めるものであるが、なぜ政治と宗教を分離しなければならないのだろうか。政教分離原則の根拠は、複数考えられる(長谷部・憲法188〜190頁、高橋・立憲主義173頁)。第1は、信教の自由の保障である。国家と宗教一般、ないし特定の宗教が結びつくと、宗教を信じない自由、特定の宗教を信じる自由が著しく抑圧される」
 この第1は、池田教が印籠視する、現行の内閣法制局の見解を指している。
 そして、同書には、続いてこう書いてある。
 「第2は、宗教の腐敗・堕落の防止である。これは、国家が特定の宗教と結びつくと、当該宗教自身が優遇される結果、国家に頼りその本来の宗教としての潔癖さを失うことを懸念するものである」
 小林節氏が、池田コウメイ党のことを「権力の魔性」と断定したように、腐敗・堕落とは、まさに池田教の姿といえよう。
 さらに、同書には、こうある。
 「第3は、民主的な政治過程の維持、あるいは政治的分断の防止である」
 として、この第3には、「さらに2つに分けることができる」として、こう記している。
 「1つは、およそ民主的な政治過程とは理性的な討論によって支配されるべき場であり、宗教はそもそも理性的な討論になじまないのでこれを排除すべきだというものである」
 これは、まさに筆者が常々に思っている点である。
 そして、こう書いてある。
 「もう1つは、民主的な政治過程は必ずしも理性的な討論が支配する場ではなく、様々な利益集団が互いに妥協しつつ利害調整をする場と見るべきであるが、宗教は絶対的な価値を主張するので、この妥協を困難にし、政治的な分断をもたらすので、やはり排除されるべきだとするものである」
 この点もしかり。
 そして、同書は、「このにように、政教分離原則の根拠は複数考えられるが、わが国の最高裁判例の特徴は、政教分離原則の根拠を専ら第1の点に求めている点にある」と指摘している。
 つまり、この国では、池田教が違憲状態になる根拠となる点が、なぜか、すっぽりと抜け落ちている。この不可解な解釈改憲こそが、池田党が国政にいることによる政教一致の産物なのではないか。 
 池田教がこの国の政治で猛威を振って久しい。その反省に立ち、政教分離の根拠となる上記第2、第3の論点を取り入れる日が、必ずやって来るに違いない。
posted by ssk at 12:21| Comment(0) | 連載
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