2016年07月13日

ニンジン

520日付の週刊朝日の連載「司馬遼太郎の言葉 37」は、「『三浦半島記』の世界3 読経の『忍人』」という記事だった。そこでは、次の司馬氏の言葉を紹介している。

 「頼朝は、たしかにただ一人で日本史を変えた。(略)その偉業のわりには、後世の人気に乏しい。頼朝は、自分自身の成功にさえ酔わなかった。その酷薄さはあるいは生来のものでないかもしれず、人心に対する虚無の思いの底に、つねに血刀をもつ長田荘司忠致とその子らが棲んでいたかと思える」

 そして、本文には、こうある。

 「源氏の棟梁で、平清盛のライバルだった義朝は「平治の乱」(1159年)に敗れ、都落ちする。

 知多半島の長田荘司忠致を頼った。同行の鎌田政家の舅で、長年の知己でもある。忠致は敗走に疲れた義朝に行水をすすめる一方、政家は酒席でもてなした。

 ところがすべて罠だった。

 まず、風呂に隠れていた数人の男たちが裸の義朝にのしかかって刺殺した。

 騒ぎを聞いて立ち上がった政家はすねを斬られ、倒れると、談笑していた男たちが次々に刺した。」

 「一方、父を失った頼朝は捕らえられた。13歳だが、男児であり、本来なら殺されても仕方がなかった。しかし亡くした子に面影が似ていると、清盛の継母が命乞いをしたことで、伊豆に流される。

 以後、20年間、頼朝は伊豆の蛭ケ小島(現伊豆の国市)で読経三昧の日々を送ることになる。

 般若心経を毎日十九回高唱し、念仏は千百遍となえた。

 千遍は父義朝のため、百遍は鎌田政家のためである。

〈憎悪の情の深さは尋常ではなかった。日々、死者たちを供養しているのは、頼朝の場合、恨みを日々深めているといってよかった〉

 こうして忍耐の日々を送った頼朝は、1180年に挙兵する。

 最初は敗れたが、伊豆半島の北条氏、三浦半島の三浦氏、房総半島の上総氏、千葉氏などの協力を得て、鎌倉幕府をつくり上げていく。

 うそのような話で、父を殺した長田忠致も平家の衰えを見て、頼朝の陣に加わっている。受け入れる頼朝もまたすさまじい。」

 そして、こう記している。

 「『初代鎌倉市長に挨拶しようか』

 と、1995年、司馬さんは鎌倉・鶴岡八幡宮の近くの頼朝の墓に詣でている。長い階段を上りつつ、司馬さんはいった。

『頼朝は忍人だね』

 一瞬、人参かと思ったが、『三浦半島記』に説明がある。

〈忍という文字は、善と悪の両義性をもっている。耐えしのぶには、意志の力が要る〉

 この意志力は善だという。

〈しかしそれだけのつよい意志をもつ者は、いざとなれば残忍だろうということから、“忍人”という場合、平然としてむごいことができる人ということになる〉

 頼朝は源義経、範頼といった2人の弟を死に追い込んでいる。とくに平家との戦いで大功をあげた義経の人気が高かっただけに、頼朝は冷酷な印象を後世に与えた」


 池田大作教が蔓延し、時の権力と結びつき猛威を振るう時世に嫌気が差すとき、「忍人」として耐えしのんだ頼朝に思いを馳せると、筆者は、気が楽になる。


 頼朝は、「忍人」として耐えしのぶなかで、在るべき国づくりの姿を模索したことだろう。頼朝は、残忍といわれることが多いが、いくさのない国を志向していたはずだ。実際、鎌倉幕府は約150年間続き、その頼朝の政治は徳川家康に受け継がれ、200年以上もの太平の世を築いた。


 驕る池田教と安倍党が猛威を振るう今も、スケールの大きい忍人が胎動していることだろう。

posted by ssk at 14:47| Comment(0) | 随筆
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