2016年04月11日

「天下分け目の戦い」青野カ原の合戦


 平成二十八年四月四日、auのニュースサイト


  EZニュースフラッシュ増刊号「朝刊ピックアップ」で記事


「「天下分け目の戦い」青野カ原の合戦」


を企画、取材、執筆しました。



 けさの毎日新聞に「天下分け目、青野カ原 合戦直後の文書に記載」という記事がある。この記事の冒頭には、こうある。

 「関ケ原の合戦の呼び名は当初、『青野カ原の合戦』だった?−−。京都市右京区の陽明文庫(名和修文庫長)に保管されていた古文書『前久(さきひさ)書状』に合戦直後の様子が詳細に記され、戦いの場所が『関ケ原』ではなく『青野カ原』と書かれていたことが分かった。合戦に関する戦記物などは多数現存するが、合戦直後の1次史料は非常に少なく、専門家は『当時の状況が分かる第一級の史料』としている」

 調査した石川県立歴史博物館館長の藤井譲治・京都大名誉教授(日本近世史)によれば、「前久書状は戦国時代の公家・近衛前久(15361612年)が記した。(中略)合戦5日後の慶長5920日に書かれたもので、徳川家康が江戸城を出発した日時や小早川秀秋の寝返りなど14項目にわたり、かなり正確に記述されていたことが判明した」という。

 そして、「藤井教授は書状に『青野カ原ニテノ合戦』と記載されていたことに着目。青野カ原は南北朝時代の古戦場として当時から知られていたことや、関ケ原から東北東約8キロの地点にかつて『青野村』(現・岐阜県大垣市青野町)があり、毛利家一族の吉川広家の自筆書状や『慶長記略抄』の狂歌にも関ケ原の戦いが『青野か原』と記載されていると指摘している。また合戦の当事者である家康が合戦当日に伊達政宗に書いた書状で『今十五日午刻、於濃州山中及一戦』と別の表記がされていることなどから、『当初は関ケ原の戦いという呼び方ではなかった』と推測している。『天下分け目の合戦』として定着している関ケ原の合戦だが、『関ケ原』の記述が出現するのは主に同年10月以降の島津家の古文書から。藤井教授は『情報量が豊富な今回の史料が出てきたことで、関ケ原の合戦の認識が変わる可能性がある』としている」という。

 定着した「関ケ原の戦い」という名が消えることはないだろうが、ひょっとしたら将来、歴史の教科書は、「関ケ原の合戦(青野カ原の合戦)」といった書き方になるかもしれない。

 なお、この国の歴史上、ほかに「天下分け目の戦い」といえば、驕る平氏が源氏に打ち負かされた「源平の合戦」があげられよう。

 ちなみに、現代も、二大政党制を志向した小選挙区制が導入されて以降、勝つ側は、オセロゲームのように圧倒的勝利をおさめることが多くなってきており、「天下分け目の合戦」の様相を呈している。

 ただ、よくいわれるように小選挙区制には、公認権、人事権などを持つ首相官邸の締め付けが強まり、議員の個性、主義主張が奪われるリスクがある。その象徴は、安倍政権である。それに比べ、中選挙区制では、今よりも国民の声を反映した議員、政党が増える作用がある。ただし、自分が支持する議員、政党がいたとしても、それは常に野党の側にいて、自民党だけが半永久的に与党のポジションにいる、というかつての政治に戻るおそれが多分にある。

 その点、小選挙区制には、驕る与党が、一夜にして惨敗して下野する、という政治のダイナミックスがある。好むと好まざるとにかかわらず、私たち有権者はそういう政治システムのなかにいる。(佐々木奎一)

posted by ssk at 12:08| Comment(0) | 記事
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