以下、その昔、プライベートで書いた文章。一遍上人について。
鎌倉仏教・時宗の祖である一遍の生きた時代は、動乱の世だった。一遍が産まれた1239年の少し前には、源平の合戦、鎌倉幕府の成立、承久の乱が起きた。宗教、思想界も乱世で、これまでの加持祈祷による密教的な天台、真言の宗教が、もはや武士や庶民の心を満たしきれなくなっいた。
そうした中、一遍が36歳のとき、蒙古が襲来した。ちょうどこの年から16年間にわたって一遍は各地を巡った。
一遍の救いの特色は、「賦算(ぷさん)」である。これは縦7.5cm、横2cmの賦算札といわれる木版に「南無阿弥陀仏 決定往生 六十万人」と書いてある。
ここでいう六十万人とは、南無阿弥陀仏の六字名号と、仏教で説く十界などの意味があり、要するに、一切衆生もろもろの人、という意味である。
一遍の特色は、この札を信じない人にも配り、信じなくても札を持った人は救われる、としている点である。これは熊野権現の信託で「信不信をえらばず、浄不浄をきらわず、その札をくばるべし」といわれたため、と一遍は述べている。宗教の概念であるはずの、信じることで救われる、という教えを打ち捨て、信じなくとも救われる、という他力本願を打ち立てた。一遍から札をもらえば、無神論者でも、精神障害者でも、痴呆の人でも、赤ん坊でも、犯罪者でも、どんな人でも、もらった瞬間に往生が約束された。
一遍は「捨て聖(ひじり)」ともいわれる。
一遍語録の随所には、捨てる大切さが、説かれている。例えば次の言葉を遺している。
「無為の境にはいりんため、すつるそ実の法恩よ」(さとりの世界にはいるために、この世を『すてる』ことがまことのご恩に報ゆる行為である)
「むかし、空也上人へ、ある人、念仏はいかが申すへきやと問けれは、『捨てこそ』とはりにて、なにとも仰られすと、西行法師の撰集抄に載られたり。是誠に金言なり。念仏の行者は智恵をも愚痴をも捨て、善悪の境界をもすて、貴賎高下の道理をもすて、地獄をおそるる心をもすて、極楽を願ふ心をも捨て、又諸宗の悟をもすて、一切の事をすてて申念仏こそ、弥陀超世の本願の尤かなひ候へ。」
「愚老か申事をも打捨、何ともかともあてかひはからすして、本願に任て念仏したよふへし」(このように、一遍が言うことを捨てて、何ともかとも思慮、分別を捨てて念仏せよ、安心、不安心を考えず、本願にまかせて念仏するのである)
「捨ててこそ見るへかりけれ世の中をすつるも捨ぬならひ有とは」(この世を私たちは捨てても、後の世には阿弥陀仏は決して私たちを捨てないということは、この世を捨ててこそ、はじめて知ることができるのである)
一遍は「遊行上人」ともいわれる。
遊行とは、旅するという意味だが、その本来の意味は「神・仏に対する呼びかけ」であり、「神・仏に尽くすこと」であった。一遍にとって、遊行は単なる旅ではなく、神聖な行いだった。
こうして遊行を続ける一遍のまわりには、一遍の弟子たちや、疾病、障害などのため通常の生活ができなくなった心身障害者や、乞食、非人、悪党らも集まっていた。その証拠に一遍聖絵には、肉のただれ落ちた顔を布で覆い隠した癩者(らいしゃ)、手に下駄をつけて地べたを這って動く躄者(へきしゃ)、こもをかぶって横たわる精神障害者、空虚な目つきの聾唖者(ろうあしゃ)、視覚障害者なども集まっていることが、描かれているのである。それは中世ヨーロッパで使徒的精神運動を推進した聖ノルベールを彷彿とさせる。
また、一遍の救いの特色の一つは、「踊り念仏」である。それは数十人、ときに数百人が集まって、広場に櫓(やぐら)を組んで、念仏を称えながら、弥陀の極楽に往生した今がそのまま浄土だという喜びで、踊り狂うというもの。はねあがり、舞い上がる踊り念仏は、激しいリズムによって、熱狂的に踊り、身も心も裸になってゆやく(勇躍)し、踊り手に宗教的なエクスタシーをもたらす。その瞬間に、人々は阿弥陀仏に結縁するといわれる。
なお、一遍の教えには、他の宗派のような教義もなく、文字もほとんど残していない。一遍は、教団も不要としていた。そのため、宗教改革といった、教義の構築も起こりえず、組織維持の求心力といったものを持ちえなかった。その点が他宗とは異質である。
その代り、一遍の死後、時宗は、宗教活動ではなく、文化活動で、日本の礎を築いた。時宗の門徒は、阿弥を名乗ったが、観阿弥・世阿弥の能・狂言のほか、田楽、和歌、連歌、俳句、川柳、歌舞伎、音楽、文芸、鋳物、建築、刀鍛冶、紙、蒔絵、水墨画、茶道、立花、剣術、医療、作庭、外交、運輸などの分野で、阿弥衆が日本の基層文化の立役者となっていった。
参考文献
「中世時宗史の研究」(小野澤眞、八木書店、2012年6月)
「一遍上人語録 捨て果てて」(坂村真民、大蔵出版、1994年10月)
「一遍聖絵を読み解く 動きだす静止画像」(武田佐知子、吉川弘文館、1998年12月)
「一遍聖絵を歩く 中世の景観を読む」(小野正敏、高志書院、2012年7月)
「徹底検証 一遍聖絵」(砂川博、岩田書院、(2013年1月)
「一遍の宗教とその変容」(金井清光、岩田書院、2000年12月)