さらに、育鵬社「中学社会 新しいみんなの公民」のP44、45には「人権の歴史」とあり、「西洋における人権」「日本における人権」と、人権がまるで東西で違うものであるかのような小見出しがある。
本文には、「大日本帝国憲法では、国民には法律の範囲内において権利と自由が保障され、その制限には議会の制定する法律を必要とするとされました(法律の留保)。
第二次世界大戦後に制定された日本国憲法では、西洋の人権思想に基づきながら、『憲法が日本国民に保障する基本的人権は…侵すことのできない永久の権利として信託されたものである』(97条)とし、多くの権利と自由を国民に保障しています」とある。
要するに、これは何が言いたいのかというと、押しつけ憲法によって、西洋の人権が押し付けられているが、日本における人権に戻すべきである、日本における人権とは、「法律の範囲内」で下々の民に対し、国家が保障してあげるものである、下々の民は国家のことをありがたく思え、というもの。つまり、我々国民の権利、自由を縛りつけたくて、しょうがないのである。(写真は育鵬社「中学社会 新しいみんなの公民」より)
続いてP46の「基本的人権の尊重」の章では、「基本的人権の保障と充実は、何より重要な政治目的のひとつとして位置づけられなくてはなりません」とある。
これも変な文である。
例えば帝国書院の公民の教科書をみてみると、こう書いてある。
「基本的人権は、国家や憲法によって与えられるものではなく、すべての人が生まれながらにして認められるべき権利です。日本国憲法でも、『国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない』(第11条)と宣言しています」
つまり、基本的人権というのは、国家が「保証や充実」してやる、と称して国民にベタベタ近づいてきて与えるものではない。もともとある権利なのだから、国家は「尊重し妨げない」ことこそ必要である。
育鵬社の教科書は、日本国憲法を殺す精神に満ち満ちている。
無論、その育鵬社の教科書を読んでオベンキョウしているに違いない安倍自公政権も、日本国憲法を抹殺したくてしかたがないのである。
(続く)