そして、前述の「大日本帝国憲法の理念」の右隣には、英語の文書を載せている。キャプションには、こうある。
「英文で書かれた日本国憲法の憲法草案 GHQの民政局は、各国の憲法を参照しながら英文で憲法草案を書き上げました。」(写真は育鵬社「中学社会 新しいみんなの公民」より)
本文には、「マッカーサーは、日本の憲法の改正を政府に求め(中略)GHQは(中略)1週間で憲法草案を作成したのち、日本政府に受け入れるようきびしく迫りました。日本政府は英語で書かれたこの憲法草案を翻訳・修正し、改正案」を出し、それを一部修正をして、「日本国憲法として公布」しました、と記載している。安倍自公政権のいう、「押しつけ憲法論」そのものである。
さらに本文横には、新聞の写真付きで「検閲を受けた出版物」とあり、「GHQは占領期間中、軍国主義の復活を防ぐためとして、徹底した検閲を行いました。(中略)そのため、自由な報道や表現は大きく制限されました」と、批判している。(写真は育鵬社「中学社会 新しいみんなの公民」より)
ちなみに、GHQはたしかに検閲をしていたが、戦前・戦中の日本に比べれば、異次元にましである。
大日本帝国憲法下の日本の言論は、検閲の嵐で、窒息死状態だった。
そのことは、「太平洋戦争と新聞」(前坂俊之、講談社、2007年5月)に詳しい。同書によると、当時は、新聞法により、新聞は発行と同時に、内務省、警視庁、地方の特別高等課などに納本され、検閲された。同法23条には、「安寧秩序を紊(みだ)し、又は風俗を害するものと認めた時はその発売頒布を禁止し、必要な場合はこれを差し押さえることができる」と規定。出版法でも同様の条文があった。
具体的な掲載禁止事項は、「捜査、予審中の被告事件に関する事項」「皇室の尊厳を冒涜する事項」「君主制を否認する事項」「共産主義、無政府主義を支持する事項」「国軍存立の基礎を動揺させる事項」「軍事上、外交上、重大な支障をきたすべき機密事項」「財界を撹乱し、その他、著しく社会の不安を惹起するような事項」「戦争挑発のおそれのある事項」「安寧秩序を紊乱する事項」「風俗を壊乱する事項」「その他著しく治安を某買いするものと認められる事項」などなど。
こうした安寧秩序紊乱による新聞・出版の発売禁止処分数は、1926年(昭和元年)にすでに412件あった。その後、どんどん増えて、満州事変時の1931年には3,076件、翌1932年には4,945件に上った。(内務省警保局「昭和十年中に於ける出版警察外観」より作成(高木教典「言論統制とマス・メディア」より)。「太平洋戦争と新聞」より孫引き)
育鵬社は、こういった大日本帝国憲法下で起きた歴史的事実は闇に葬り、GHQのことは、報道の自由と表現を大きく規制した、と、批判している。これは歴史健忘症ではない。悪意ある歴史修正主義そのものである。
さらに、本文横には、「日本国憲法の基本原則」とあり、人間が、重そうな屋根を支えているようなイラストがある。 人間は三人いて、「日本国憲法」という土台の上に立っている。三人は、それぞれ「基本的人権の尊重」「国民主権」「平和主義」という名前があり、三人合わせて両手で「日本の政治」という重しを支えている。
この絵がなんとも重苦しく、日本国憲法を暗に否定するものとなっている。((写真は育鵬社「中学社会 新しいみんなの公民」より)
この教科書を読む生徒のなかには、こうしした種々の小細工に洗脳されて、大日本帝国憲法に戻すべき、と考える者も出てくるに違いない。いや、すでにそうした洗脳された者は、世に出てきているに違いない。
(続く)