2016年01月13日

京都市“猫エサやり禁止条例”ができるまで  エサやり禁止プロジェクトチーム 三十四

 なお、このTHEペット法塾の交流会の終了後、ちょっとした懇親会があり、十五分程度、懇親会の参加者は会場を出たところで待つことになった。

 そのとき、佐川さんと、吉田真澄氏、それに元東京都新宿区の保健所衛生課職員・高木優治氏が、イスに座り、テーブル越しに話していた。佐川さんに対し、吉田氏は、京都市は条例上問題ない、という言い方をしており、高木氏も、吉田氏に同調し、二人して、京都市は大丈夫、と佐川さんを説得している様子だった。

 ちなみに、吉田真澄氏は、この日の話のなかで、三権分立のなかで、立法、司法は、やることが明確だが、行政は不明確でどんどん肥大化していく傾向がある、という意味のことをいい、行政が国民・住民の権利を侵害していると感じた時は、行政に対し、「それはどの法律・条文を根拠にしているのか?」と問いただしていく必要がある、今日も何人かいますが、特にこういうときは法律家が役に立つ、という意味のことを言っていた。

 この話はまさに佐川さんのケースで当てはまる。つまり、佐川さんが直面しているのは、吉田氏のいうところの行為責任ではなく結果責任である、という条例の中身とは違う解釈をしている警察や住民が、エサやり行為そのものを犯罪扱いしている。本来なら役所は、犯罪人扱いされて虐げられている住民を守るため、条例を曲解している住民、警察に対し、周知徹底する義務があるのに、それをしていない。動物を愛する弁護士なら、その不作為を指摘し、ただしていかなくてはならない。公道でエサをやるなといっている役人も、法的に問い詰めていく必要がある。

 そういう話を吉田氏はしていたのに、京都のことになると、村社会の原理が働き、何もできないどころか、逆に佐川さんに対し、京都市は問題ないと説得している始末。

 もちろん、吉田真澄氏が、公然と京都市のおかしさを追求するとなると、たしかに色んな人間関係が悪化するのは火をみるより明らか。それでも行政を追及するなら、村八分に耐えるか、京都から引っ越す覚悟が必要であろう。それは難しいのが現実。

 京都市の動物行政には、そういう村社会の原理がある。その事を示す意味で、吉田真澄氏の事例をあげた。

 なお、吉田真澄氏は、この日の話のなかで、「できるだけ動物愛護活動に携わっている方は、個々的ではなしに、全体的に、色々な形で協力し合うということが非常に重要になってくる」「小異を捨てて大同につく、この姿勢が非常に大切になってくる」、2000年に、東京の団体に招かれた折、動物愛護団体は、(団体同士が)非常に仲が悪い、そのような状態ではだめだ、小異を捨てて大同につかなければならない、と言って講演をはじめたことがあるが、ここにおいても同じことをまた申し上げなければいけないのは残念、という意味のことをと語っていた。

 筆者は、昨年2月に都内で開催した動物愛護イベントでも、500人以上の聴衆の前で、吉田氏が全く同じ話をしていたのを聞いたことがある。なので、この言葉は、何十年も動物愛護行政の改善に取り組んできた吉田氏の、後世へのメッセージという気がしている。

 吉田真澄氏は、京都市の野良猫エサやり禁止条例については、ポジション上、今後も相談に乗れないと筆者は思うが、いうまでもなく、京都以外の動物愛護にまつわる問題については、頼もしい弁護士である。

 何がいいたいかというと、筆者は動物を愛する人たち同士で仲たがいをするのを望んでいるのではない。事実は事実として、こと京都市に関しては、吉田真澄氏は前述のとおりの状態なので、そのことは把握しておかないと、惑うことになると思うので記した次第。

 (続く)

posted by ssk at 22:42| Comment(0) | 連載
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