くだんの菊池正士の手記から20日後の1949年6月10日の讀賣新聞朝刊に、こんな広告が出た。
それは、「原子力講演と映画の会」という広告。主催は読売新聞社、つまり、社告である。
冒頭には、こう書いてある。
「『原子力時代来る!』の声は大きいが、一般にはまだその意義が徹底していない。原子力とは何か、その平和的利用による威力は、これからの政治、経済、生活、産業にどんな変革をもたらそうとしているであろうか。その秘密を誰にもわかり易く面白く解説する権威ある公開講座」
そして、「第三回読売科学公開講座 ―入場無料」とあり、その横に、白抜きの大きな字で「原子力講演と映画の会」とある。
日時は「6月13日 午後1時ー5時」、場所は「有楽町 読売会館ホール」。
その横に「プログラム」が、こう書いてある。
「原子力と平和 科学研究所長理博 仁科芳雄」
「原子力発生の工業的背景 工大助教授理博 武田栄一」
「原子力時代の医学と農業 東大助教授医博 吉川春寿」
「原子力による人類生活の変革 東大教授理博 嵯峨根遼吉」
「CIE教育映画『原子力』」
このなかの、仁科芳雄、武田栄一は既述の通り。
吉川春寿は、のちの東京大学大学院医学部長。
嵯峨根遼吉は、戦前から理研の仁科芳雄のもとで学んでいた核研究者。のちに特殊法人・日本原子力研究所の副理事長など原発法人の要職を歴任する人物。
CIEとは、Civil Information and Education Sectionの略で、GHQの民間情報教育局。ここで第二次大戦後の日本占領下の文化面の情報収集と行政指導をし、教育制度改革などを実施した。(デジタル大辞泉より)
写真は、その社告。
のちに讀賣新聞は、「原子力平和利用博覧会」というイベントを都内の日比谷公園で主催して、そのことを大々的に報じ、“原発プロパガンダ”と化していくのだが、「原子力講演と映画の会」は、その「祖形」である。
なお、「イベント」は、讀賣新聞のお家芸である。
「巨怪伝 上―正力松太郎と影武者たちの一世紀」(佐野眞一、文藝春秋)には、戦前に部数を伸ばして大手紙の一角まで上り詰めた正力松太郎のやり方について、「地道な取材活動による紙勢の拡大という発想は、正力の頭のなかにはほとんどなかった」、「イベントという“疑似ニュース”」が、拡販の手段だった、と指摘している。
例えば、1926年に囲碁の名人・本因坊秀哉と七段・雁金準一の対極を実現させ、その棋譜を連日報じて大反響だったり、1933年にはフランスからボクシングの世界チャンピオンを招聘し、両国国技館や早大グラウンドで日仏対抗拳闘選手権をしたり、1935年には多摩川園で菊人形展を開き一日4万人もの入場者がつめかけるなど、イベントでヒットを連発させてきた。
例えば、写真は、その菊人形展の社告(1952年9月18日付朝刊)。
要するに、原発も同じ手法で広めていったというわけ。
(続く)