2017年03月02日

アイデンティティを喪失したモンゴルと日本

  平成二十九年二月十七月付、のauのニュースサイト

   EZニュースフラッシュ増刊号の「朝刊ピックアップ」で記事 


 「アイデンティティを喪失したモンゴルと日本」


 を企画、取材、執筆しました。



13日付のロイター通信に「北京よりひどいモンゴルの大気汚染」という記事がある。それによると、モンゴルの首都ウランバートルは世界で大気汚染が最もひどい場所の1つで、「同市のPM2.5(微小粒子状物質)の濃度は先月後半のある日、855マイクログラム/立方米まで上昇。一方、北京での濃度は同日、70マイクログラム/立方米だった。世界保健機関(WHO)によると、許容できる基準は2025マイクログラム。ウランバートルの数値は1000に達することもある。

 モンゴル公共衛生当局の責任者によると、市内スモッグの約8割は、市の外れの貧困層が暮らす伝統的な移動式住居「ゲル」が建ち並ぶ地域から排出されているという。

 多くの住民は元遊牧民である。近年の極めて過酷な冬のせいで家畜が死んでしまい、都市へと移動してきたのだ。気候変動のせいもあり、ひどく過酷な冬は当たり前になってきている」とある。

 この記事には、赤茶色のスモッグとモクモクと立ち上る煙がウランバードルの町を覆う写真が付いている。

 モンゴルのこの様相は、約半世紀前とは天地雲泥の差がある。例えば作家の司馬遼太郎氏は1973年、週刊朝日の連載「街道をゆく」の取材でモンゴルへ行っている。そこには、飛行機で同地に着陸したときの情景をこう描いている。「一望の草原が眼下にせまった。川がうねり、その川をいとおしむように白い小さな建物が点在している。モンゴル人民共和国の首都であるウランバードルである。(中略)

 飛行機から降りると「肺がはずむような感じで空気のよさがわかった。このすばらしくいい空気をわずかなモンゴル人が享受しているのかと思うと、幸福というのは一体何なのか。(中略)

 滞在中にきいた話がある。ウランバードルは都市ながらも、日本の乗鞍岳の頂上より空気の透明度が高いのだが、それでも草原の空気に馴れたモンゴル人には不満で、『ウランバードルの空気は流動体だ』とののしっているのをきいた。(中略)清流のアユがどぶ川では棲めないように、草原の暮らしの中にいるモンゴル人の肺というのがいかに空気の清濁に敏感であかにおどろかされた」

 この紀行では、その後、ゴビ砂漠へ行き、草原に生きる遊牧民のことをつづっている。少年のころからモンゴルにあこがれ、「わがモンゴルよ」と心の中で叫ぶ思いでモンゴルの地を踏んだ司馬氏が、今の現実を知ったなら、卒倒するかもしれない。

 ただし、現在のウランバードルの大気汚染の惨状は、記事にあるように、「近年の極めて過酷な冬のせい」で家畜が大量に死んでしまったことが、「近視眼的」な原因という。

 モンゴルの気象については、例えば、国際NGOセーブ・ザ・チルドレンHP16225日付記事によると、「エルニーニョ現象が発生すると、夏の間、モンゴル一帯の地域では、低温と少雨が続く傾向にあり、十分な牧草が育たない。一方で、冬に入ると状況は一転して多雨に見舞われ、モンゴルのような寒冷地では、それが深刻な寒雪害に直結する。このように、夏の干ばつと冬の寒雪害が立て続けに起こる自然災害は、モンゴルでは『ゾド』と呼ばれており、過去に起こったゾドでは、ほぼ例外なく、モンゴルの遊牧民の生活の糧である家畜の大量死が起こっている。モンゴル政府は過去の経験を踏まえ、昨年の夏から干し草や飼料の備蓄を行っていたが、それでもこの冬を乗り切るのには充分でないと言われている。国民の約18%の世帯が遊牧で暮らしを立てている同国にとって、家畜の大量死は人々の生計、ひいては国の経済に深刻な打撃を与える事態である」とある。

 このなかで注目すべきは、「国民の約18%の世帯が遊牧で暮らしを立てている」とある点だ。つまり、いまモンゴルでは18%しか馬に乗って暮らしていないことになる。モンゴルの国章は、疾駆する一騎の人馬である。誇り高き騎馬民族であるはずのモンゴル人が、いまやグルーバルな物質文明にまみれ、モンゴル人そのものである「馬」に乗ることすら忘れてしまい、町に住みついた。そのモンゴル人の堕落が、大気汚染の大局的な要因といえよう。

 冒頭の記事にもそのことは表われている。つまり、「市内スモッグの約8割は、市の外れの貧困層が暮らす伝統的な移動式住居「ゲル」が建ち並ぶ地域から排出されている」「世界保健機関(WHO)によると、許容できる基準は2025マイクログラム。ウランバートルの数値は1000に達することもある」とあるが、そうであるなら、ゲルが立ち並ぶ地域がスモッグの約8割を本当に排出していたとして、残りの2割、つまり、多いときは1000マイクログラムの2200マイクログラムという、WHOの基準の810倍もの大気汚染は、ゾドにより遊牧をやめた人以外の、馬に乗らないウランバートルの住民たちが輩出していることになる。ウランバードルの空気の汚れは、モンゴル人の堕落の象徴である。

 ひるがえって、日本をみるとどうであろう。日本は健在といえるだろうか。

 たとえば、明治時代、三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎は、旧大名家に借金をしていたことがあった。その借金証文には、いつまでに返済する、もしこのことに違えれば、お笑いください、とあるのみだった。(「風塵抄 ニ」(司馬氏著)259頁)。つまり、ウソをついて人に笑われる、というのは、忍び難い屈辱であった。この「人に笑われまい」という「恥の文化」こそ日本の唯一の民族資産であり、それによって日本は千年以上も社会を保ってきた、と同書にはある。

 この「人に笑われまい」という精神こそが、モンゴル人の馬に相当する、日本人のよりどころとするアイデンティティといえよう。

 それがいまの日本はどうであろう。政権与党の自民党幹事長は、昔の日本人ならさげすんだであろう、あからさまに首相にゴマをすり太鼓持ちに励むという醜態を日々さらし、ときの首相は、選挙に不利になるため、壊憲という真の争点を隠して当選する、という国民をだましてウソをつく軽薄な政治を公然と行い、平和を偽装したカルト教団が与党として安倍自民党の補完勢力となり、地球の裏側までアメリカの戦争に駆けつけることを可能とする憲法違反の法律を通して居直り、その自公政権は、おごり高ぶった国会運営でカジノ法を通し、あまつさえ天皇陛下の意思をないがしろする特別法をこしらえる始末。たとえば、西郷隆盛は、城山で最期を迎える時、東を向き、皇居を伏し拝んで死んだといわれる。その西郷が安倍自公の政治をみたら怒髪天を突くことだろう。

 無論、政治だけではない。例えば、野球の日本代表は、サムライを称しているにもかかわらず、ヒットを打つ気のないファウルを連発して四球狙う、という世にも卑怯な手口を常套手段とする日本ハムの中島卓也(なかしまたくや)を代表に据えたりしている。中島のように卑怯な真似をして、卑怯者と世界からモノ笑いの種になるくらいなら、昔の武士なら、死を選択したことだろう。そういう唾棄すべき卑怯者を、日本の代表に据えてサムライと呼称してはばからない。

 司馬氏は晩年、土地を金儲けの道具としてきた日本は、バブル崩壊により、第二次大戦の敗戦よりもひどい状況となり、日本そのものが滅ぶのではないか、と危機感を抱いて逝ったが、前述のモンゴルどころではない次元で、日本はもうなくなってしまっているのではないか。

 ただし、個々人でみると、かつての武士を感じさせる日本人が、今もいる。それが唯一の救いである。(佐々木奎一)

posted by ssk at 22:21| Comment(0) | 記事