2017年02月26日

受動喫煙禁止法案に自民党部会で9割反対…

 平成二十九年二月十三月付、のauのニュースサイト


   EZニュースフラッシュ増刊号の「朝刊ピックアップ」で記事 


 「受動喫煙禁止法案に自民党部会で9割反対…」


 を企画、取材、執筆しました。



28日付の朝日新聞朝刊に「飲食店、原則禁煙に例外 受動喫煙対策法案 30平方メートル以下のバー・スナックなど」という記事がある。それによると、厚労省が検討している受動喫煙禁止法案が自民党などの反対で当初のたたき台よりも後退しているという。

 具体的には、「政府案では、飲食店は原則建物内禁煙で、煙が漏れず、飲食ができない「喫煙専用室」の設置は認める。ただし、延べ床面積約30平方メートル以下の小規模店で、主に酒を提供するキャバレーやバーなどは、店頭に注意を喚起する表示や換気などを前提に、喫煙を認める」という。これを「案1」と称している。

 そして、「案2」なるものをつくるという。その中身は、30平米以下のキャバレー、バーは喫煙可にすることに加え、「居酒屋や焼き鳥屋、おでん屋など」も30平米以下の小規模店は喫煙オッケィにするというもの。

 なお、こうした30平米以下の例外案について、日本禁煙学会の作田学理事長は「例外を認めると、なし崩し的に法律が意味のないものになってしまう。スペインでは面積によって当初は規制に差をつけたが、『不公平だ』として廃止された」と警鐘している。(9日付毎日新聞朝刊)

 たしかに、小規模な店ならお咎めなし、というのは“脱法行為”であり、法を骨抜きにするものだ。

 では、どうすればよいか。

 例えば、「平昌での冬季五輪が1年後に迫る韓国は、法律で医療機関や学校などが屋内全面禁煙、飲食店や官公庁、駅は喫煙室の設置を認める屋内禁煙としている。飲食店は段階的に対策を進め、12年に店舗面積が150平方メートル以上の大型店のみの規制から始め、14年に100平方メートル以上、15年から店の広さに関係なく全飲食店を規制対象とした」(同)とある。このように、段階的に例外なく全面禁煙にできればスムーズだが、日本では、タバコが禁止になると店が潰れてしまう、というキャバレーなどの零細店が反発している。

 だから、116日付当コーナーで提唱したように、延べ床面積約30平方メートル以下のキャバレー、バーなどの脱法行為の小規模店には、事業許可料として、雇っている労働者数、あるいは延べ床面積に応じて、けっこうな額を、数年おきに役所に納入するよう義務付ける。例えば、最低でも1千万円以上を3年おきに払う、といった具合にだ。喫煙者がそうした店に流れ込むはずなので、払えるはずである。そうすれば、不公平感をなくすことができる。

 また、冒頭記事によれば、喫煙許可店は「店頭に注意を喚起する表示」をするというが、これも当コーナーで記したように、店の看板、玄関ドア、ホームページ、名刺、広告等に、必ず、喫煙可を示す不気味な「タバコを吸っているドクロ」などのマークをデカデカと掲げ、米印で「当店は、タバコにより健康に害を及ぼす有害店なので、タバコを吸わない方はご遠慮願います」というふうに、日本語、英語、中国語、フランス語、スペイン語などの主要言語で示すことを義務付けるべきである。

 なお、冒頭の、厚労省「案2」(30平米以下の居酒屋や焼き鳥屋、おでん屋などでも喫煙可)は、なし崩し的に、酒が飲める店ではどこでもタバコを吸えるようにしてしまえ、という、受動喫煙禁止の趣旨からかけ離れた脱法案であり、こんなデタラメな案をつくること自体、厚労省の無責任体質を物語っている。

 このように、受動喫煙の被害をなくしていくためには、冒頭の「案1」をブラシュアップしていく以外に考えられない。

 が、驚いたことに、その案1や案2についてさえ、自民党の国会議員が猛烈に反対しているという。10日付の朝日新聞朝刊の記事「受動喫煙対策で自民紛糾 『喫煙の自由認めろ』『東京だけでやれ』」によれば、9日に開かれた自民党厚生労働部会には、約80人の議員が参加し、厚労省の案12について、議論した。そこでは、「『小規模店への配慮が足りず、廃業だ』『30平方メートルの基準はきつい』などの意見が相次いだ。規制反対の署名活動を念頭に、『次の選挙が危なくなる』という声もあり、全体のうち反対意見が9割を占めたという」。さらに、「『零細な店はつぶれる』『職業選択の自由を奪い、憲法違反だ』」という批判も出たという(10日付毎日新聞朝刊)

 しかも9日付のジャパンタイムズ電子版によれば、この自民党部会では、喫煙者を取り締まり、根絶やしにしようとしており、憲法で保障した基本的人権の侵害だ!と息巻く議員もいたという。

 受動喫煙により毎年15千人が殺されている状況だというのに、なお、喫煙の権利を声高に叫ぶこの人たちは、受動喫煙に苦しむ被害者のことを一体どう考えているのだろうか。内心、受動喫煙で死ぬ奴は勝手に死ね! そんなことで死ぬ奴のことなど知ったことではない! と思っているとしか考えられない。

 さらに、この自民党の部会に呼応する形で、民進党内で10日、「愛煙家」を自称する赤松広隆前衆院副議長ら十数人が出席し、「分煙推進議員連盟」が発足。政府が検討中の受動喫煙対策を強化する法改正案への懸念を表明したという。(11日付朝日新聞朝刊)

 加えて自民党の補完勢力である「公明党の井上義久幹事長は10日の記者会見で「分煙スペースがない飲食店に配慮が必要」と指摘。愛煙家の超党派議員で構成する「もくもく会」は近く、分煙の居酒屋で会合を開く」という。(11日付日本経済新聞朝刊「分煙で与野党共闘?」)

 このように受動喫煙被害者にとって絶望的な景色が広がっているが、民進党議員の動向は、あくまで個人的な動きに見受けられる。野党各党は、政党として、受動喫煙をどうしていくのかを公約に掲げ、有権者に受動喫煙に対するスタンスを示すべきだ。(佐々木奎一)

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2017年02月23日

国民愚民化のツール「民放キー局テレビ」

 平成二十九年二月九月付、のauのニュースサイト


   EZニュースフラッシュ増刊号の「朝刊ピックアップ」で記事 


 「国民愚民化のツール「民放キー局テレビ」」


 を企画、取材、執筆しました。



 あまたある世界の名言の一つに、こういう言葉がある。

「テレビは非常に教育的な役割を果たしていると思う。誰かがテレビのスイッチを入れるたびに、わたしはその場を離れて本を読むからだ」

 これはグルーチョ・マルクスというアメリカのコメディアンが遺した言である。

 そして最近、この名言を想起するネット記事があった。

 それは、「『CMは偏差値40の人にも理解できるようにする』」という記事。(131日付キャリコネニュースより)

 それによると、元電通社員でブロガー・作家として人気のはあちゅうさんという人物が、電通の先輩から聞いたという「教え」を130日にツイートし、炎上しているのだという。そのツイートとは、次の通り。

 「電通の先輩が、『CMは偏差値40の人にも理解できるものじゃなきゃダメ。この会社にいる時点で普通ではないと自覚しろ。世間にはおそるべき量のおそるべきバカがいる。そしてそれが日本の「普通の人」だ』って言ってたの、一番役に立ってる教えの一つだ」

 このツイートについて、同記事には「電通の就職倍率は100倍以上に上る。高倍率の選考を突破したエリート社員たちが彼らの基準でCM作りをしても、多くの人に届かないということなのだろう」「はあちゅうさんの先輩は確かに言葉が悪かったかも知れないが、こうした考え方は、メディアや広告代理店に勤務する人にとってはごく普通のことなのかもしれない。元NHKディレクターで、経済学者の池田信夫さんも過去に同様の書き込みをしていたことがある」、「私がNHKに勤務していたころ教わったのは、『典型的な視聴者は、50歳の専業主婦で高卒だと思え』ということだった」、「『偏差値40』や『高卒』という表現が気に食わない人も多いかもしれない。ただ、やはりテレビ番組や広告は、不特定多数の人に届くように、誰でもわかりやすいものにしなければならない。そのことを端的に表しているのだろう」とある。

 なお、はあちゅうさんのツイートは炎上し、「日本の普通の人は馬鹿だって言い切れる考えが怖いよね」「電通ってろくでもない会社だな」「電通はかわいそうな労働環境なので、働いているうちに馬鹿になってくのは仕方のないこと」などという批判が出ている一方、次のように理解を示すコメントもあるという。

 「はあちゅうが言ってるのは正しいだろ。偏差値60以上を狙うと全人口の1割しか市場がないんだよ。40以上でよければ9割が市場になる」「偏差値40でも楽しめる番組を作り続けたテレビ局は、偏差値40以上の番組の作り方を忘れてしまい、偏差値40以上の人々はテレビを見るのをやめてしまったとさ」

 と、このように記事には書いてあった。無論、この記事は「偏差値40」「高卒」「50歳の専業主婦」といった表現で、そうした人をひとくくりに低劣であるかのように論じている点はおかしい。例えば、作家でみると、池波正太郎氏は小学卒、松本清張氏は高等小学校(現在の中卒相当)、浅田次郎氏は高卒だし、落語の桂歌丸師匠は中卒だったりするが、これらの人のことを低劣だいう人は絶無なのではないか。

50歳の専業主婦と一くくりにいっても、司法試験などの難関国家試験に挑戦して合格する人もなかにはいるし、賢い人は山ほどいる。

 偏差値40とひとくくりにいっても、それは勉強が嫌いでやらないから偏差値40なのであり、少し勉強をしただけで一気に偏差値70以上になるような類もいれば、勉強は苦手だが頭自体は賢い、という人も世の中にはいる。それに、作家の司馬遼太郎氏は、西郷隆盛や坂本竜馬などの幕末維新の英雄たちは、いまの学歴社会でみたら偏差値はそんなに高い部類ではなかっただろう、という趣旨の発言をしたこともあるとおり、世の中には、偏差値で推しはかれない人は多々いる。

 要するに、一概に判断するのはおかしい。ただ、その一方で、学歴や偏差値、年齢職業等で区分けして、そこに属する人の平均をみた場合、属性ごとに歴然とした傾向が出てくるのは確かといえよう。その意味で、偏差値40云々というツイートは、納得せざるを得ない。

 そして、テレビである。例えば、民放キー局の番組をつけてみると、笑い声や効果音といった色々なノイズでとにかくうるさいのが圧倒的に多い。画面も常時、色々なチカチカする色のテロップ(文字)で溢れており、とにかく金魚のように落ち着きがない。それに、お笑い芸人などが爆笑したりしてる顔面のアップなどの卑しい映像をやたらと流し、内容も浅薄で低劣な番組が氾濫しており、気分が悪くなる人も多いのではないか。

 もちろん、低劣なものばっかりではなく、なかにはピンポイントで、ためになるコーナーや、浅薄でない番組もあることはある。が、総体でみると、民放キー局のテレビ番組は、衆愚装置と言わざるを得ないほど低劣な内容に溢れているのは否めない。それだから、冒頭紹介した電通社員が言ったという見解に納得せざるを得ない。

 もちろん、テレビを観るも観ないも自由なのは当然である。くだらないテレビだからこそ、たまに観ると息抜きになっていいのだ、という人もなかにはいるかもしれない。

 だが、テレビというのは、惰性でだらだらとみていると、くだらない内容などを受動的にインプットしてしまうことになるので、疲れるうえに劣化する、というマイナスの効果があるので、惰性でみるよりは、ピンポイントでこのコーナーだけ観よう、とか、この時間帯のこの番組だけは観よう、というふうに、目的を明確に持った方がよいのではないか。そして、限りある人生なのだから、例えば、冒頭の名言のように読書や勉強など、なるべく、もっと有意義なことに時間を使った方がよいように思うのだが、どうだろう。(佐々木奎一)




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2017年02月19日

大統領令差し止めと、お上にひざまずく日本の司法

 平成二十九年二月六月付、のauのニュースサイト


   EZニュースフラッシュ増刊号の「朝刊ピックアップ」で記事 


 「大統領令差し止めと、お上にひざまずく日本の司法」


 を企画、取材、執筆しました。



5日付の朝日新聞朝刊に「大統領令、司法『待った』 米入国禁止、差し止め 効力は一時的」という記事がある。それによると、「トランプ米大統領が署名した、難民や中東・アフリカの7カ国の国民の入国を一時停止する大統領令に、司法がストップをかけた。3日にワシントン州の連邦地裁が出した決定は、大統領令は違憲である可能性を指摘し、効力を停止させた。しかし、トランプ政権は猛反発し、法廷闘争に持ち込まれるのは必至で、騒ぎはやみそうもない。

 決定は、停止を求めたワシントン州側と、政権の双方の主張を聞いた上で、ジェームズ・ロバート判事が即日で出した。

AP通信によると、法廷で判事は、対象7カ国の国民によるテロ事件が米国内で起きているか政権に問いただした。政権側が『分からない』と答えると、判事は『答えはゼロだ。(大統領令は)米国を守らなければならないと主張するが、支える根拠がない』と述べたという。

 決定では、大統領令の効力を一時停止することは『例外的な手段だ』と認めた上で、今後の訴訟でも州側が勝つ可能性が十分にあると判断。大統領令の効力が続いた場合、州に取り返しのつかない損害が起きる可能性も考慮した。大統領令が違憲であるとの考えも示唆した。

 訴訟を起こしたワシントン州のボブ・ファーガソン司法長官は『大統領を含めて、法の上に立つ人は誰もいないことが示された』と決定を歓迎。一方、ホワイトハウスのスパイサー報道官は声明で、決定を不服として、命令の執行停止を求める方針を明らかにした。(中略)

 民主党のシューマー上院院内総務は『この決定は憲法の勝利だ。トランプ大統領は決定を心に留め、大統領令を廃止すべきだ』と訴えた」という。

 この訴訟の結末はまだわからないが、少なくとも、アメリカの裁判所は、法に基づき、大統領の命令をストップさせる権力を持っていることが、この一事をみてもわかる。

 法ではなくお上の顔色をみて判断するこの国の裁判所とは、まるで違う。

 例えば、日本には、行政事件訴訟法という法律がある。「行政訴訟」とは、「行政庁の権限の行使の適法・違法をめぐって生ずる国民と行政庁との間の紛争を正式の裁判手続に従って裁判すること」をいい、その手続きを定めたのが同法である。(日本大百科全書)

 同法25条には、裁判所が行政処分を執行停止することができる、つまり、時の政権のやっていることをストップさせることができる、とある。が、同法27条には、この裁判所の執行停止について、「内閣総理大臣は、裁判所に対し、異議を述べることができる」とある。

 そして、この首相による「異議があつたときは、裁判所は、執行停止をすることができず、また、すでに執行停止の決定をしているときは、これを取り消さなければならない」とある。

 つまり、裁判所がストップと言っても、首相が異議あり、と一言いえば、裁判所は撤回する、というわけ。

 これでは行政権が司法権を侵しており、三権分立の原則に反する、という違憲説もあるが、実際は同法がまかり通っているのが実情である。

 最高裁判所の判例も、お上にひざまずくような思考で一貫している。例えば、こんな裁判がかつてあった。

 それは、時の首相が、「抜き打ち解散」をしたときのこと。当時、衆院議院の一人が、この解散が憲法第69条「内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、十日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない」には当てはまらず、憲法7条「天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。」の「二 国会を召集すること」も適法になされておらず違憲である、と訴えた。

 だが、一審、二審で原告敗訴。そして最高裁でも、原告は負けた。最高裁はこうのべている。(昭和3568日、最高裁判所大法廷判決)

 「衆議院の解散が、その依拠する憲法の条章について適用を誤つたが故に、法律上無効であるかどうか、これを行うにつき憲法上必要とせられる内閣の助言と承認に瑕疵があつたが故に無効であるかどうかのごときことは裁判所の審査権に服しないものと解すべきである」

 要するに、総理大臣の一存で突然衆院解散することが憲法違反かどうかは、裁判所は審査しない、という。

 さらに、こうある。「わが憲法の三権分立の制度の下においても、司法権の行使についておのずからある限度の制約は免れないのであつて、あらゆる国家行為が無制限に司法審査の対象となるものと即断すべきでない。直接国家統治の基本に関する高度に政治性のある国家行為のごときはたとえそれが法律上の争訟となり、これに対する有効無効の判断が法律上可能である場合であつても、かかる国家行為は裁判所の審査権の外にあり、その判断は主権者たる国民に対して政治的責任を負うところの政府、国会等の政治部門の判断に委され、最終的には国民の政治判断に委ねられているものと解すべきである」

 この判決文からは、「法の上に立つ人は誰もいない」という精神のカケラすらもない。アメリカの司法とは、どえらい違いである。日本の司法は、独立しなければならない。(佐々木奎一)


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2017年02月16日

近隣住民の“ベランダ喫煙”による受動喫煙被害

 平成二十九年二月三月付、のauのニュースサイト


   EZニュースフラッシュ増刊号の「朝刊ピックアップ」で記事 


 「近隣住民の“ベランダ喫煙”による受動喫煙被害」


 を企画、取材、執筆しました。



 喫煙者を国民の2%未満に激減させる、と宣言している国がある。無論、日本ではない。

CNN電子版によれば、「フィンランド政府がたばこのない国家の実現に向けて、2040年までに成人の喫煙人口を2%未満に減らすという大胆な目標を打ち出した。普通のたばこのほか、かぎたばこ、無煙たばこ、葉巻、パイプ、電子たばこも含めてあらゆる形態のたばこの一掃を目指す」というのである。

 すでに、「フィンランドでは今年から新たな対策が導入され、たばこ製品の販売や喫煙に対する規制が大幅に強化された。

 まずたばこ販売のハードルを引き上げるため、たばこ販売業者に対して免許の取得を義務付けた。免許を取得した業者は毎年料金を支払い、各自治体で販売業者が規制を守っているかどうか監視するための費用を負担する。

 この監視料は、レジ1台当たり年間で最大500ユーロ(約6万円)にもなる。レジが10台ある店舗は、免許料に加えて年間5000ユーロあまりを負担しなければならない計算だ。

 自宅のベランダでの喫煙についても、煙が流れ出て近隣の迷惑になると判断すれば、住宅会社が禁止を申し立てることが可能になった。

15歳未満の子どもが同乗している車の中では、たとえ自家用車であっても喫煙が禁止された。こうした措置は英国などでも導入されている」

 「電子たばこは昨年8月からたばこと同じ厳しい規制の対象となり、風味を付けることも禁止された。風味付きの電子たばこを巡っては、子どもが喫煙に興味を持つきっかけになりかねないとして論争の的になっていた」

 「たばこ製品一掃の目標を打ち出したのはフィンランドが初めて」という。

 一国の政府が、たばこを根絶することを宣言したことは、時代の最先端をいくもので、こうした国はこれからどんどん増えていくことだろう。

 そして、フィンランドが今年から導入しているという前記の対策は、どれも日本にとって参考になる。

 なかでも注目なのは、ベランダの喫煙で、近隣が迷惑を被れば、住宅会社が禁止を申し立てることができる、とする制度である。

 日本ではこういう自宅のベランダの喫煙者は、ホタル族ともいわれる。夜のベランダ喫煙者のタバコの火は、はたからみると、ホタルのようだからだ。

 しかし、ホタル、という表現は、良い風に例え過ぎである。実体は、毒ガスをまき散らすテロ行為のような悪質な仕業だからだ。

 ベランダで吸ったタバコの煙は、四方八方にまき散らされ、他人の部屋に侵入する。窓を開けていると、モロに煙は入ってくるし、たとえ窓を閉めていても、キッチン等の換気扇とつながっている換気口や、部屋の換気用の換気口から、タバコの煙は入ってくる。それにベランダで洗濯物を干していた場合は、洗濯物がタバコ臭に侵され有害物質まみれになってしまう。

 つまり、平穏な空間であるべき家の中にいながら、他人のベランダ喫煙のせいで、年間15千人以上を殺している受動喫煙被害を受けることになる。

 しかも、たちの悪いことに、喫煙者がベランダで吸うのは、自分の部屋の中は、タバコの煙で蔓延させたくないからである。

 そんな身勝手なベランダ喫煙者のなかには、近隣を受動喫煙にさらしているという事実を知らない無知蒙昧な者もいる。また、害をまき散らしていることを承知の上で、吸う輩もいる。

 現状、こうした喫煙者に対する対応は、物件ごとに異なっている。大屋や管理会社次第である。卑近な例でいうと、筆者の住むマンションでも、ベランダ喫煙被害があった。そこで管理会社に事情を説明したところ、担当者は、即座に喫煙者に電話をして、外でタバコを吸わないよう、注意した。それ以降、被害は沈静化した。こういうちゃんとした管理会社なら安心だが、そういう会社ばかりではない。

 しかも、賃貸物件なら、喫煙者も、被害者側も、いずれ引っ越しをするので、まだましである。何千万円とか億単位のお金でマンションを買った場合、その大枚をはたいた物件がどんなに良い立地、間取り、造りでお気に入りだったとしても、隣や下の住民がベランダで喫煙をするような輩だったら、台無しである。

 しかも、管理するのがマンション管理組合の場合、決議のための多数派工作や役員の考え次第で、マンション内のルールがクルクルと変わることもある。つまり、マンションを買うときは、ベランダ喫煙禁止になっていたとしても、将来、規約が変わって、ベランダ喫煙可となるリスクを内包している。

 では、一戸建を買えば安全かというと、そうとも言い切れない。特に都会では、隣の家との距離が近い物件は多い。その隣の住民が、ベランダで吸う場合、悲惨である。

それにベランダでは吸わず、部屋の中で吸っていたとしても、隣の換気口から、もうもうと煙がまき散らされ、それがこちらの部屋に侵入してくることもある。

 一戸建ての場合、管理組合や管理会社がないため、その住民は喫煙する自由を声高に主張するかもしれない。

 こうした受動喫煙の被害者が、たとえ裁判を起こしても、負けるかもしれない。たとえ勝訴しても、「ある程度は受忍すべき義務がある」といった理由で、5万円の慰謝料を得る程度だったりする(名古屋地裁平成241213日判決、月刊誌「国民生活」194月号「暮らしの法律Q&A」より)。

 要するに、現状、日本では、隣人のベランダ喫煙による受動喫煙被害者は、泣き寝入りを強いられる環境下にある。フィンランドのように、日本も、ベランダでの喫煙は禁止すべきである。(佐々木奎一)

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2017年02月13日

天皇陛下をないがしろにして壊憲にうつつを抜かす自公

平成二十九年一月三十月付、のauのニュースサイト


   EZニュースフラッシュ増刊号の「朝刊ピックアップ」で記事 


 「天皇陛下をないがしろにして壊憲にうつつを抜かす自公」


 を企画、取材、執筆しました。



24日付の毎日新聞電子版に「<退位>学友ら、一代限りに懸念 『陛下の真意置き去り』」という記事がある。そこにはこうある。

 「安倍晋三首相の私的諮問機関「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」の論点整理が公表され、天皇陛下の退位に向けた動きが前進した。だが、今の陛下に限り退位を認めるとの方向性が強まっていることに、元側近や学友から「陛下の真意が取り残されているようにみえる」との声が上がっている。

 陛下を身近で支える侍従や侍従次長などを19952012年に務めた佐藤正宏さん(75)は(中略)「陛下は積極的に人々と言葉を交わし、心を通わせることを大切にされ、象徴天皇の在り方をそこに求めてこられた。いまの議論は、象徴天皇の在り方といった本質的な議論が深まらないまま進んでいる」

 <ご高齢で大変そう><ゆっくりしていただきたい>……。陛下へのこうした声は、「感情論」に聞こえると佐藤さんは言う。「陛下は感情論ではなく、国民の要請に応えながら安定した皇位継承を確保するため、制度はいかにあるべきかを考えてこられたと思う」

 学習院高等科まで陛下の同級生だった明石元紹(もとつぐ)さん(83)は、「皇室典範の改正で退位を制度化することを望んでおられると思う」と話す。陛下は昨年88日のおことばで「象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ」と述べた。このことを明石さんは「自分が疲れたから辞めさせてほしいと言っているのではない」と受け止めている。

 明石さんは昨年721日夜、陛下と電話で話した。陛下は退位について「国のための制度がある以上、合理的でいつも変わらない形にならないと意味がない」と述べたという。明石さんは「こうした考えが理解されないまま議論が進むことへの危機感」を抱き、電話の内容を報道機関に明らかにした。「今回も、次の天皇の時も、一代限りで対応すればよいというのではあまりに皇室の存在を軽視している。将来に向けて皇室のあり方を真剣に考えてもらいたい」と話した。」

 さらに「横田耕一・九州大名誉教授(憲法学)」は、「現行制度と現状のずれについて議論を尽くしてこそ制度をどうするかの検討に進めるはずで、今の議論は拙速だ。このまま一代限りの退位を認めることになると「陛下のわがまま」という印象が残り、陛下に失礼だ」と、単刀直入に安倍自公を批判している。

 このように天皇をないがしろにして、拙速に一代限りの退位の特例法で片付けようとしている安倍自公政権は、他方では、れいによって改憲にご執心である。

 例えば、毎日新聞によれば、安倍晋三首相は昨年10月、自民党の保岡興治憲法改正推進本部長と会談した際、日本維新の会の憲法改正原案に盛り込まれた「教育無償化」を改憲項目とするように言ったという。教育無償化は野党や国民の賛同も得やすいとの思惑からで、安倍氏は「『改憲したい』と言っている人たちとよく話し合い、連携してほしい」と述べたという。その後、自民党は昨年128日の衆院憲法審査会幹事懇談会で8項目の「今後議論すべきテーマ」を示し、教育無償化を明記した。

 今年15日には、安倍氏は、党本部の仕事始めのあいさつで、今年が憲法施行70年だと言及し「節目の年。新しい時代にふさわしい憲法はどんな憲法か議論を深め、私たちが形作っていく年にしたい」と述べた。

 また、朝日新聞によれば、20日の国会の施政方針演説で安倍氏は、今年が憲法施行から70年の節目に当たることに触れ、「次なる70年に向かって日本をどのような国にしていくのか。その案を国民に提示するため、憲法審査会で具体的な議論を深めようではありませんか」と音頭を取ったという。

 この安倍氏の音頭に呼応した太鼓持ちのゴマスリ幹事長・二階俊博氏は、22日のNHK「日曜討論」で、改憲について「できるだけ早く一定の方向を、党としてまとめたい」といい、今国会中の発議について「状況を見て判断する」と述べ、番組終了後に記者から「今国会での発議の可能性を否定しない立場か」と問われ、「結構です」と答え、618日までの今国会中に憲法改正の発議を目指す可能性に言及したという。

 安倍氏は27日の衆院予算委員会でも、憲法改正について、「最終的に決めるのは国民だ。国会において議論を進めずに、(国民の)権利行使に対してふたを閉めていいのか。大いなる問題意識がある」と述べ、国民投票を視野に、衆参両院の憲法審査会で改憲項目をできるだけ早く絞り込むよう促したという。

 このように、安倍自公政権は、天皇陛下の退位制度の恒久化の議論にはフタをしめて、そそくさと一代限りの退位の特例法で済ませようと図り、壊憲にうつつを抜かしている。要するに、おごる安倍自公は、私的願望である壊憲をしたいがために、天皇陛下の退位の恒久制度という、この国の根本的な議論にまでフタをした。(佐々木奎一)

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2017年02月09日

時空の旅人

 今日は、「NHKスペシャル 街道をゆく プロローグ 時空の旅人 司馬遼太郎」という映像を、ひさしぶりにみた。

 街道をゆく、のNHKの映像はいくつかあるが、なかでもこのプロローグは、傑作、と思う。


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電車自殺について

 平成二十九年一月二十三月付、のauのニュースサイト


   EZニュースフラッシュ増刊号の「朝刊ピックアップ」で記事 


 「電車自殺について」


 を企画、取材、執筆しました。



9日付で「電車に飛び込んだ男性の体、ホーム女性直撃」というニュースが日本テレビであった。それによると「8日午後8時半ごろ、大田区の京浜急行『雑色駅』で、20代の男性がホームから下りの通過電車に飛び込み死亡した。男性の体は電車にはね飛ばされ、ホーム上にいた20代の女性を直撃し、女性は頭や腕を打撲する軽傷を負ったという。警視庁は、男性が自殺を図ったとみて調べている。京急線は、この事故や横浜市内の踏切事故の影響で一時、ダイヤが乱れた」という。

 人身事故は、多くの電車ユーザーにとって、身近な出来事だが、飛び込み自殺により、打撲という直接的な被害を負う、というのは珍しい。もちろん、自殺した人は、打撲どころではない打撃を人生で受けていたのであろうし、その人をそこまで追い詰めたのは、広くいえば社会そのものであり、社会の一員であるわれわれ一人一人も、まったく100%関係ないとはいえないのだから、自殺した人のことを憐れみ、自殺のなくなる社会にしていこう、と思うことは、大切なことといえよう。

 だが、そうはいっても、電車に乗ろうとしていたら、いきなり目の前で男が飛び込み自殺をはかり、その死体が、頭や腕にぶつかってケガをした、という女性は不憫である。

 それに、この女性のように直接的被害ではないにしても、鉄道自殺のたびに、電車がストップして、何万人、何十万人、ラッシュ時なら百万人単位の人が、影響を被る。これらの人々は、間接的な被害を受けていることになる。

 例えば、ごくごく卑近な例でいうと、昨年のクリスマスの日の終電の1時間前位に、JR京浜東北根岸線という電車の、都心から神奈川方面行きに、筆者は乗った。その日、筆者は疲労困憊だった。電車に乗ると、席が空いていたので、グッタリと座った。そこから約1時間も電車に揺られて帰る予定だった。家族に、電車に乗ったことを伝えた。すると、電車に乗って約20分ほど経ったところの蒲田駅手前で、にわかに電車はストップし、二駅先で人身事故が発生しました、蒲田駅で電車はストップします、と車内放送があった。限界まで疲れていると、こうした予期せぬ事態は、痛烈な打撃になるもので、ますますぐったりしてしまった。家路が遠いため、どうすれば帰れるか、ルートを考え、品川駅まで戻って、京急線で横浜か杉田駅まで行くことにした。京急の品川駅に行くと、人々でごった返しており、なんでこんなに混んでいるんだ? と戸惑う声があちこちで聞こえた。それで横浜駅で降りて、JR線に乗ろうとしたところ、まだ京浜東北根岸線は動いていなかった。が、さいわい、東海道線と横須賀線という、家の近くの駅まで行く路線は、3040分遅れで何とか動いており、ちょうど5分後に着く、と表示されていたので、それに乗った。そして、大船駅で降りた。もうストップしてから大分経っていたから、京浜東北根岸線もさすがにそろそろ動いているだろう、と思い、乗って最寄りの駅で降りて帰ろうとしたが、時刻の表示板が消えていた。駅員に聞いたところ、もう今日は電車はありません、という。タクシーで帰ることにした。タクシー代は約1500円かかった。なんとか大船駅まで何とか辿りついたからよかったものの、京急線の杉田駅まで行き、そこから先の電車がなかったら、タクシー代は57千円位かかっていたことだろう。結局、家に着いたのは午前1時過ぎだった。

 この一件で、筆者は過労に陥ってしまった。およそ1週間、思うように動けず、予定が狂った。だが、さいわい、年末年始に入り、休息の時間が取れたので、過労を脱することができた。

 無論、これはほんの一例でしかない。人身事故により、過労の限界ギリギリでセーブしてやっている人に、最後の予期せぬ一撃を加える形となり、それにより一線を越えた過労に陥り、その後の予定が狂い、そのなかで予定に合せなければならないために、最悪の場合、過労死に陥る人もいるかもしれない。

 要するに、電車の人身事故により、こうした間接的な被害は、無数に起こっていることは想像に難くない。

 「鉄道人身事故に関する自殺行動モデル」(著:赤塚肇、村越暁子、鈴木綾子、鈴木浩明、本澤卓司、楠神健、「鉄道総研報告」より)によると、「苦悩に圧倒されて、自殺しようとしている絶望的な人は、他者の感情について冷静に考えられる状態にないことは容易に想像できる。…自殺の危険の高い人は他の人々の感情をあまりに軽視してしまっている」という。(「青少年のための自殺防止マニュアル」(著:高橋祥友/金剛出版刊)より孫引き)。そして、「うつ状態での自殺」が鉄道自殺では多いが、「そのような人にいくら理屈で説き伏せようとしても無駄である」という。(「働き盛りのうつと自殺」(著:大原健士郎/創元社刊)より孫引き)

 そのため、「人身事故による影響人員の大きさや、損害賠償、遺族の迷惑を強調することは、抑止手段として議論に上がることもあるが、このように、自我機能が低下していることが自殺の基礎にあるとするならば、自殺の危機が高まった状態に陥った個人に対して際立った効果を持つとは考えにくい」とある。

 なお、前出の「鉄道人身事故に関する自殺行動モデル」には、こうある。

 「自我機能の低下を基礎とする場合、自殺手段について冷静・理性的に選択しているとは考えにくい。すなわち、自殺未遂者を対象としたルポルタージュでは、なぜその方法を選んだのかとの問いに対する回答はどれも漠然としており、問いに対する回答にはなっていなかったと報告されている。この著者(※注 矢貫隆「自殺 生き残りの証言」(文藝春秋))は、自殺の手段は、考えた末に選んだものではなく、その瞬間、目に付いたもの、その瞬間、頭に浮かんだものを選んだに過ぎないのではないかという疑問を投げかけている」。

 「デュルケームも『自殺の本質と自殺者が選ぶ死の方法とのあいだには、なにか関係があると思われるかも知れない。(中略)だが、あいにく、この点にかんして筆者の試みた探求の結果は否定的なものであった」、「自殺者の選ぶ方法は、自殺の性質それじたいとはなんのかかわりもない現象」であると述べている」(デュルケーム(宮島喬 訳)、「自殺論」、中央公論社)。

 このように自殺が衝動的なものであるなら、例えば、常日頃から、鉄道自殺を忌み嫌う人がたくさんいて、人として最低の行為である、ということがインプットされて、鉄道自殺などしてはいけないということを本能次元で理解できるようになれば、ホームから飛び込もう、という衝動が起きたときに、その発作的な思いつきを行動に移さない一因になり得るのではないか。

 この鉄道自殺の衝動が起きた瞬間にブレーキをかけることができれば、ひょっとしたらその人は、それ以降、そのような衝動は起こらず、生き続けるかもしれない。

 だから、自殺をなくしていくためにも、鉄道自殺はよくないことである、と、もっと社会全体で声を大にして言っていってよいのではないか、と思う。(佐々木奎一)



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2017年02月05日

「死」を語り合うデスカフェ

 平成二十九年一月二十七月付、のauのニュースサイト


   EZニュースフラッシュ増刊号の「朝刊ピックアップ」で記事 


 「「死」を語り合うデスカフェ」


 を企画、取材、執筆しました。



 「お茶しながら死を語り合うデスカフェって?」というニュースを25日付日本テレビ電子版が報じていた。それによると、「デスカフェ」なるものがひそやかに広がっているのだという。「デスカフェ」とは「『死』について語り合う集まり」という。

 これはスイスの社会学者のバーナード・クレッタズ氏が、妻の死をきっかけに約10年前に始めた」もので、「欧米を中心に広まり、今ではイギリスなど40か国以上で開かれている」のだという。

 同ニュースでは、先週末に東京都品川区で開いたデスカフェを紹介している。そこでは、身近な人を亡くした経験がある人や、親が末期ガンだと医師から告げられた人、親の介護をしている人など、40代から70代の14人が集まった。参加者からは、「死については、絶対に自分にとっても起こるものだから、いろんな方々の考え方を聞くことができて勉強になった」(40代男性)、「周りとの関係も、悔いを残しちゃダメなんだというか、大切にしたいなっていうのを改めて思いました」(40代女性)といった感想があり、参加者は明るい雰囲気で話しており、なかには話し足りないという人もいたという。

 また、福岡県・覚円寺の僧侶・霍野廣由氏が作った、全国の若手のお坊さんたちのグループ「ワカゾー」によるデスカフェも紹介している。これは2015年から大阪や京都で開催していて、クレヨンで死のイメージを表現したり、理想の死に方を話し合ったりしている。参加者はなんと7割が20代。「若い世代は、死について漠然とした不安があるのではないかと感じる。回数を重ねるごとに若い人が集まってくれて驚いた」(霍野氏)。

 経産省の2012年の調査によると、「死ぬのがとても怖い」と感じている人を年代別でみると、若い人ほど高くなっており、70歳以上が36.2%なのに対し、30代は54.7%と半数を超えている。これは核家族化で死が身近でなくなったことなどが要因の一つとみられるのだという。

 このようにあるが、死を直視する、というのは、よいことのようにみえる。無論、若者だけではない。いくら歳を重ねても、自分はいずれ死ぬ、という現実から眼を背けて生きている人もいる。が、上記のデスカフェは「明るい雰囲気」だった、とあるように、死に向き合うことは、意外にも、人生を前向きに捉える効果があるようだ。

 ただし、デスカフェが広まると、当然想定される負の面もある。それは、カルト教団による被害である。つまり、デスカフェにカルト教団が目を付け、集まりに加わる。そして、参加者と接触、会話を重ねる中で、教団に引きずり込んでいく、という悪質事件が起こることは容易に想像がつく。

 その点、そうしたカルト教との接触というハイリスクのない方法がある。それは、一人で考える、である。例えば、作家の故司馬遼太郎氏は、歩いていると頭上から崖が崩れ落ちてきて、その破片が頭に当たって死ぬ、ということを想像して生きている、という意味のことを書いていたことがあった。

 筆者は、明日不測の事故が死ぬかもしれない、と考えてみた。すると、プライベートで、むきになっていたことがあったのだが、どうでもよいことのように思えてきて、もっと前向きに、真摯に、謙虚に、生きようという気持ちになった。

 もちろん、ことさらに「明日死ぬかも」といった話をしても、家族など周囲を暗くさせたり、うんざりさせる可能性が高い。なので、あえて口にする必要はないとは思うが、死を直視することは、プラスの効果がある。(佐々木奎一)



PS いうまでもなく、カルト教団とは、池田教などを指す。

posted by ssk at 22:06| Comment(0) | 記事