2017年01月30日

台頭するポピュリズムと“衆愚政治のシンボル”

 平成二十九年一月二十月付、のauのニュースサイト


   EZニュースフラッシュ増刊号の「朝刊ピックアップ」で記事 


 「台頭するポピュリズムと“衆愚政治のシンボル”」


 を企画、取材、執筆しました。



18日付の日本経済新聞朝刊に「内向き世界 処方箋探る ポピュリズム台頭に懸念 ダボス会議」という記事がある。

 それによると「世界各国の政府要人や多国籍企業の経営者らが集う世界経済フォーラムの年次総会が17日、開幕した。(中略)2016年は増加する移民や自由貿易への抵抗感を背景に、英国が欧州連合(EU)からの離脱を決定。米国の大統領選挙で既存の政治家を批判するトランプ氏が次期大統領に当選するなど、内向き志向が強まっている。(中略)経営者からは開幕前や開幕直後に危機感のこもった発言が相次いでいる。『ポピュリズム(大衆迎合主義)の台頭は当然、ビジネスによいとはいえない』。16日にサイドイベントを開いたスイス金融大手UBSのセルジオ・エルモッティ最高経営責任者(CEO)はこう話した。『なぜ(大衆迎合に傾く)か、に耳を傾ける必要がある』」といった懸念の声があったという。

 「ポピュリズム」とは「日本大百科全書」(小学館刊)によると、「大衆の支持を基盤とする政治運動。一般庶民の素人感覚を頼りに、政権や特権階級、エリート層、官僚、大地主、大企業などの腐敗や特権を正す政治エネルギーとなることもあるが、一方で人気取りに終始し、大衆の不満や不安をあおる衆愚政治に陥ることもある。(中略)ポピュリズムの特徴は、(1)理性的な議論よりも情念や感情を重視する、(2)政治不信や既存の社会制度への批判を背景に広がることが多い、(3)集団的熱狂、仮想敵への攻撃、民主主義の否定などに向かいやすい、(4)有権者の関心に応じて主張が変わり一貫性がない、(5)多くの場合一過性の運動である、など」とある。

 ちなみに、現代民主主義の「源流」である古代アテネの民主政治について、69日付の当コーナーで触れたが、アテネでは、ポピュリズム=衆愚政治が横行していた。

 古代アテネは前5世紀半ばには黄金時代を築いたが、その後ペロポネソス戦争をさかいに無定見な民衆による衆愚政に堕し、前4世紀には衰退した、というのが通説である。

 が、「民主主義の源流 古代アテネの実験」(著: 橋場弦/講談社刊)は、この通説を否定している。例えば、「『衆愚政』ということば自体、(中略)特定の立場から何かをそしるときに用いるレッテルであって、あることがらを客観的に説明することばとは言えない」と批判している。

 このように否定的な同書でさえ、「衆愚政の醜態と非難されてもしかたのない悲劇」としてクローズアップしている事件がある。それは「アルギヌサイ裁判」という。同書には概要次のにようにある。

 紀元前431年から、アテネとスパルタが、ギリシアの覇権をめぐるペロポネソス戦争を起こした。その後、デマゴーグと呼ばれる主戦民主派のリーダーたちは、いたずらに支配欲をあおり立て、スパルタ側からの和議の申し出を蹴ったり、開戦後10年には、いったん和平が成立したのに、デマゴーグが盛り返して戦争再開したり、前415年にはアテネが空前の規模の海外遠征を企て、シチリア島に大軍を派遣したが、大失敗に終わるなど、アテネはその支配権をじりじりと追い狭められていった。そして、前406年、死に物狂いのアテネは、残された総力をあげて決戦に挑む。これはアルギヌサイ群島付近で行われたため、「アルギヌサイの海戦」という。この決戦にアテネは勝利した。がしかし、戦争に勝ったあと、海戦により漂流した味方を救出しようとする中、にわかに季節外れの暴風雨が襲い、波にのまれてしまい多くの漂流した味方の兵士が海の藻屑と化した。

 ことの次第を聞いたアテネ民会は、憤怒した。決戦には勝利したものの、多くの将兵の命が失われた惨劇の責任は、現場の将軍たちにあると考えたからである。

 将軍6名(その他に2人いたが、責任を取らされて殺されるのを恐れ国外逃亡)は帰国後、逮捕拘留され、「弾劾裁判」で「民会」に引き渡されることとなった。

 「民会」とは、アテネ民主政の最高議決機関。約6千人が収容される民会議場に市民はだれでも集まり発言する権利をもち、一人一票の投票権を行使した。民会では、軍事行動の決定などの外交問題、戦時財政、国会に対して功績があった者に対する顕彰決議、外国人への市民権授与決議、国の基本法の制定、改正などを決議、将軍や財務官の選挙などを決議した。

 「評議会」とは、30歳以上の市民が、ランダムで10個の部族と呼ばれる結社に分かれ、一部族ごとに50人ずつ、計500人が抽選で選ばれた。任期は一年で、二期以上連続就任はできず、生涯に二度までしか評議員にはなれない。評議会では、国家予算や教育などの重要事項を決定した。

 そして、評議員のうち各部族がひと月交替で当番評議員を務める。当番評議員は、民会と評議会の議長団を兼ねた。議長団には、例えば、議案を採決にかけるかどうかの最終決定を議長団の合議により決める、といった、いわば現在の議長のような役割があった。

 「弾劾裁判」とは、「(1)民主政転覆ないしその陰謀、(2)売国罪、(3)民会や評議会での動議提案者の収賄」という国家の存立にかかわる重大国事犯を裁く場。

 弾劾裁判にかけようとする者は、まず民会か評議会に告発して訴えを受理してもらう。告発する資格は、原則どの市民にもある。この告発を受けて、民会は、審判を民会と民衆裁判所のいずれで行うか等決める、というもの。

 こうして6人の将軍が弾劾裁判にかけられた。なお、告発した顔ぶれは、将兵救助の任務を負って果たせなかった将軍2人だった。非難の矛先をかわすため告発した。

 こうして民会に引き渡された将軍6人は、当時の状況を説明し、すべては人知の及ばぬ自然現象のもたらした不運の結果である等と弁明した。民衆はそのことばに動かされたが、このときすでに夕闇が議場を包みはじめ、挙手判定が困難となった。そこで、民会はつぎの集会に持ち越すこととし、それまでに今後の弾劾裁判の手続きをどうするかの案を提出するよう評議会に要請して散会した。

 ところが、ちょうどこの時期、アパトゥリア祭という、アテネ市民の結束を確認する祭りがあった。ここには海戦で落命した遺族たちもやってくる。当時の人々にとっては死者が故郷の土に埋葬されぬというのは、このうえなく恐ろしい不幸で、まして異国の海に遺体を漂わせ魚の餌になるなど、想像するだに耐え難いことだった。

 告発者とその仲間たちは、この機を逃さず、遺族を装って祭りに現れ、遺族たちの感情をあおり、つぎの民会にかならず出席して将軍たちの弾劾に賛成するよう説いて回った。

 同時に彼らは、評議会に工作し、違法な評議会提案を成立させるのに成功した。それは、前回の民会ですでに告発と弁明は行われたのだから、今度の民会では一切の審理を行わず、ただ一回の無記名投票により、将軍たちを有罪か無罪か判決を下すべきこと、しかも、8人は一括して判決を下すこと、有罪となれば即刻全員処刑して財産を没収すること、というもの。

 本来は、被告は別々に裁判を受け、めいめいの罪状に応じて刑が定まることになっている。つまり、告発と弁明の審理を行わず、一括して裁くというこの評議会案は、当時の常識に照らして極めて異常で違法な内容だった。

 かくして再び召集された民会では、怒りをあらわにした遺族たちが詰めかけ、興奮した市民達が怒号を発する尋常ならざる雰囲気のなかで開会した。

 さっそく評議会提案が動議された。その主旨に驚いた一部の市民達が、手続きが違法である、として異議申し立てに立ちあがった。がしかし、感情をあおられて激昂している多くの市民たちは、逆に彼らを恫喝し、異議を取り下げねば将軍たちもろとも被告席に座らせるぞ、と脅した。彼らの言い分は「たとえ何であれ、民衆(デーモス)の望むことを実行するのを妨げるのは、けしからぬことだ!」だった。やむなく異議は取り下げられた。

 次に違法手続きに抵抗したのは、民会の議長団を務める当番評議員たちだった。彼らの一部が、本来の責務に従い、採決にかけることを拒否した。しかし、同様の脅迫を受け、ついに採決に同意した。なお、このとき、最後まで採決に反対したソクラテスは、のちに、こう回想している。「あのとき当番評議員のなかで、市民たちに反対し、法に反するいかなることを行うのも拒絶したのは、私一人だけだった。登壇して提案を動議する人たちは、私をいまにも告発し逮捕しかねない勢いだったし、市民たちもそれを命じ、怒声をあげていたけれども、私はそのときこう思ったのだ。投獄や死刑を恐れ、付和雷同して不正なことを決意するよりは、むしろ法と正義とともにあらゆる危険を冒すべきである、とね」(プラトン「ソクラテスの弁明」三二B-C

 こうして民衆は異様な興奮にうながされ、違法手続きにより即座に判決に移った。議場には二種類の壺が置かれ、一方は有罪票が、他方には無罪票が投じられる。結果は有罪。6人の将軍はただちに処刑された。

 なお、信じ難いことに、市民たちはほどなく自分たちのしたことを後悔しはじめる。多くの優秀な軍事指揮官を一挙に失ったためだ。そして、民会を扇動した人物たちを告発すべく逮捕し投獄したという。

 同書には、「この種の事件が、ペロポネソス戦争中にしばしば発生したことは事実だ」とある。

 ひるがえって日本をみると、どうであろう。

 昨年、舛添要一・東京都知事が、別に違法行為をしたわけでもないのに、週末に湯河原の温泉に行っている、とか、政治資金で美術品やたまごサンドを購入した、といった、愚にもつかない話で、新聞、テレビ、ラジオ、ネットといったあらゆる媒体が、辞めろ、とか、逮捕しろ、などと連日連夜はやし立てて民衆をあおり、民衆の多くは感情的になり、与野党の政党の国会議員や地方議員、全国の首長といった政治家たちは、民衆の顔色を窺い、舛添を寄ってたかって罵倒し、ついに舛添氏を屠り、政治生命を抹殺した。

 要するに、古代アテネの“衆愚政治のシンボル”「アルギヌサイ裁判」と、「舛添集団リンチ辞職事件」は、似ている。

 つまり、日本も、衆愚政治の只中にいる。(佐々木奎一)





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2017年01月28日

海と、天地の生き物を汚染するマイクロ・プラスチック 十一

 次いで同年96日付の「マイクロ・プラスチックの主因・ペットボトル対策の実情」の元原稿は以下のとおり。

71226日付の当コーナーで海を漂う微細なプラスチックゴミ「マイクロ・プラスチック」の実態を報じた。その道の世界第一線で研究を続ける東京農工大学の高田秀重教授によると、マイクロ・プラスックの問題を解決するためには、ペットボトル対策が最重要で、具体的には、「水筒を持ち歩くことが大切。例えば有料で給水できるものをコンビニなどに置けばよい。そういう流通、消費の仕組みをつくっていくべきだと思う。 給水機も色々な場所にあります。それに水を入れておくのもよい」と語っていた。

そこで、この国のペットボトル対策の実情を調査した。調査対象のエリアは、筆者の住む横浜市栄区周辺とした。栄区は、人口と少なさ、面積の小ささ、高齢化率の高さは横浜18区の中でも屈指で、名前とは裏腹に、栄えていない区として名を馳せている。つまり、この栄区で行われていれば、他区でも同等かそれ以上の施策は打たれていると見ていい。

 横浜市のペットボトル対策は、「マイボトル・マイカップ」運動と呼ばれる。これは出かける時、マイボトル(水筒)やマイカップを使うことで、ペットボトルを減らすというもの。マイボトル・マイカップ運動は、九都県市(埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県、横浜市、川崎市、千葉市、さいたま市、相模原市)でも行われており、共同でマイボトル宣言を出している。

 横浜市では「国民1人あたりに平均すると、1年間に約180本(500mlボトル換算)も使っているというペットボトル。マイボトルを持つことで、ペットボトルなどの使い捨てを減らしていきませんか? マイボトルスポットでは、いれたてのコーヒーやお茶などを、持参したマイボトルに入れて販売したり、お水などを無料で提供しています。街中で飲み物を買う感覚で、空になったマイボトルにおいしい飲み物を入れてもらえるようになると、マイボトルを使うのがもっと楽しくなりますね。横浜にも、そんなスポットが増えています。おでかけのときには、ぜひバッグにマイボトルを」(同市HPより)として、「マイボトルスポット」を設けている。

 周知の通り、職場や、営業などの外回り、遊びなどで出かける、といった場合、水筒に飲み物を入れて持って行っても、500ml程度の容量では、すぐに飲み干してしまうものだ。かといって、あんまり大きな水筒に入れると、重過ぎて苦痛になる。なので、マイボトル運動を成功させるには、マイボトルスポットの充実が鍵を握るといっても過言ではない。

 横浜市HPでは、マイボトルスポットを地図で示している。そこで栄区周辺を調べたところ、その数は一見して少ない。区役所周辺の公共施設に、3つ集中しているが、区内の中心となるJR本郷台駅前にはマイボトルスポットは絶無だった。ほかには同駅から約2km先の、ローソンやスーパーなどに同スポットがある。

 これらの実態を知るため、現地へ向かった。

 まず、本郷台駅から約1kmの栄スポーツセンターへ行くと、玄関前に「マイボトル使えます!」というのぼりが立っていた。

 中に入り、受付の30代位の女性に「マイボトルを入れる場所はどこですか?」と聞くと、「あちらのトイレの手前の右にあります」というので、行ってみたが、筆者は発見することができなかった。再度、戻って聞くと、20mほど先導されて「これです」という。それは、ボタンを押すと噴水し、そこに口を近づけて飲む機器だった。筆者は、これはその場で飲むためのもので、容器に入れるものではない、という先入観があったため、気付かなかったのだった。平日昼間だったため、スポーツセンター内には、たくさんの高齢者が来ていたが、誰もこの給水機に水を入れていなかった。

 次に、そこから数十メートル先にある、栄区役所へ行った。本館1階受付の50代位の女性に、「マイボトルを入れる場所はどこですか?」と聞くと、聞き返してきたので、「水筒に飲み物を入れる場所のことです」と説明すると、「レイスイトウですか?それなら、新館1階のトイレの手前にありますけれども」という。新館はすぐ隣の建物。行ってみると、人の気配のまったくないガランとした場所に、ポツンと給水機があったが、トイレの出入り口にあるのでトイレ臭もした。自治体としてやる気があまりないように見受けられる。

 さらに、そこから150メートルほど行くと、本郷地区センターという公民館がある。そこの2階に、高齢男性数人がソファに座り、テーブルに碁を置いて対極している場所があった。給水機は、その付近にあった。トイレから離れている点がややましだが、やはり口を近づけて飲むタイプなので、水筒に入れている人がどれだけいるか疑わしい。

 次に、そこから原付で約3km走り、栄区の隣の戸塚区内にある大型スーパーマーケット「サミットストア下倉田店」へ行った。1階のレジの20代位の女性に、「水筒に飲み物を入れる場所はどこですか?」と聞くと、キョトンした後、思い出したように、「ああ!それでしたら、あちらのベーカリーのところにあります!」という。

 行ってみると、パンを販売している横にイスとテーブルが並び、飲み物を入れる機材が置いてある。その機材には「無料サービス(ご自由にご利用下さい) 電子レンジ 給茶・冷水」とあり、「冷水」「お湯」「お茶」のボタンの上には、「マイボトル使えます!YOKOHAMA」という青色の円形シールがペタンと貼ってある。イスも、無料で自由に使って下さい、と書いてあり、子ども連れ2組が団らんしていた。小奇麗で何から何まで行き届いており、前の3つの栄区の公共施設では、飲む気にはなれなかったのだが、このサミットでは、自然に持っていたマイボトルに手が伸び、冷水を入れてみる気になった。美味かった。

 次に、そこから約1km先にあるローソン戸塚下倉田町へ行った。一体どこに給水機があるというのか。20代位の店員の女性に聞くと、マチカフェというドリップしたコーヒーなどの飲み物が、水筒持参だと10円安くなるのだという。一方、飲み物コーナーには、例によってペットボトル飲料がズラリと並んでいる。

 そもそもマチカフェのコーヒーは、もともとペットボトルで販売しているわけではないので、「これでマイボトルスポットといえるのか?」と違和感をおぼえた。

 一応、90円を支払いアイスコーヒーをマイボトルに入てもらったが、サミットの冷水の方が美味かった。

 おそらくローソンは、サミットのようにすると、ペットボトル飲料の売り上げがガタ落ちするので、そうしないのだろう。だが、環境に配慮しペットボトルに見切りをつけるところに、商機はあるのではないか。

 次に、そこから約1km先の大型スーパーマーケット「アピタ戸塚店」へ行った。1階で台車を押している60代位の男性店員に、「水筒に飲料を入れる場所はどこですか?」と聞いたところ、「あちらです」という。行ってみると、有料のナチュラル純水の給水機器の横に、無料の給水機が置いてある。その機器には大きな貼り紙で「是非『マイボトル』で、ご自由にご利用ください!」とある。それを読んでいたところ、40代位の女性従業員が並んだので、場所を譲ると、水筒に水を入れていた。ここのマイボトルスポットは人々に親しまれているようだ。

 なお、横浜市全体のマイボトルスポットを見てみると、栄区周辺同様、やはり自治体やローソン、コーヒーショップ、大型スーパーが多い。これまで見て来たように、ローソンや、コーヒーショップは、もともとペットボトルで販売しているわけではないので、マイクロプラスチックを減らす効果は乏しい。

 それに比べ、大型スーパーのマイボトルスポットは、断然、使い勝手がよく、市民に利用されているが、惜しいことには、数が少ないので、距離的に利用できない人も多いに違いない。

 ペットボトルを削減していくためには、自治体が、サミットやアピタなどの大型スーパーをもっと見習って、設備を充実させていく必要がある。同時に、市民の側も、自治体の給水機の存在をもっと知って、マイボトル用に使っていく姿勢も必要といえよう。(佐々木奎一)



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2017年01月26日

禁煙法に反対する喫茶店、スナックへの措置案

 平成二十九年一月十六月付、のauのニュースサイト


   EZニュースフラッシュ増刊号の「朝刊ピックアップ」で記事 


 「禁煙法に反対する喫茶店、スナックへの措置案」


 を企画、取材、執筆しました。



13日付の日本経済新聞朝刊に「受動喫煙対策で業界団体が集会、中小飲食店『対応難しい』、大手は全面禁煙など先行」という記事がある。

 それによると、飲食店などの業界団体が12日、厚生労働省が検討している受動喫煙防止対策の強化案に対する緊急集会を都内で開いた、という。

 「集会には100人以上の業界関係者が集まった。個人経営の飲食店が多く加盟する全国飲食業生活衛生同業組合連合会の森川進会長は『(原則禁煙とする)厚労省案に対応するのは困難だ』と指摘。大手チェーンが加盟する日本フードサービス協会の菊地唯夫会長も『役所や医療機関などの公的機関と顧客が店を選べる飲食店に一律で同じ規制をかけるのはふさわしくない』と厚労省案に異論を唱えた」という。

 特に「反対意見が多いのは個人経営の喫茶店やスナック。『顧客の大半が喫煙者という場合も少なくない』(森川氏)」「個人経営では喫煙室を設置する改装資金を捻出できなかったり、設置場所を確保できなかったりと障害は多い。禁煙にすることで、客が離れて廃業に追い込まれるのではないかという不安も強い」とある。

 その一方、「大手チェーンには先行して禁煙に取り組む企業が多い。ファミリーレストラン大手のロイヤルホストは13年、日本マクドナルドも14年に全店を禁煙にした。日本KFCホールディングスも『ケンタッキー・フライド・チキン』の改装に合わせ、禁煙店を増やす。約300店ある直営店は数年以内の全店禁煙を目指す。従業員の受動喫煙を防止するため、喫煙室も設置しない方針だ」という。

 同記事には、いくつかの企業の取り組みを表にしている。そこには上記以外に「吉野家 074月から全店禁煙に」「スターバックスコーヒー 全店禁煙」とある。これらは、先駆的に消費者の受動喫煙被害を防いでいる点で、優良企業といえる。

 他方、表には、「モスバーガー 2017年度末までに全店で完全分煙・禁煙化の予定」「和民 04年以降の新店は分煙」「タリーズコーヒー 全店で完全分煙もしくは禁煙」「喫茶室ルノアール 20年までにほぼ全店を完全分煙にする方針」とある。よくいわれるように、分煙とは“詭弁”である。例えば、WHO(世界保健機関)は「喫煙室の設置や空気清浄機の使用といった分煙では受動喫煙を防止できない。受動喫煙を防ぐには建物内を100%禁煙とする方法以外に手段はない」と勧告している。実際、分煙をくちにする店に入り、そのタバコ臭にヘキエキした、という人もいることだろう。

 上記のような詭弁を弄する会社は、健康に害を及ぼす「有害企業」と言わざるを得ない。

 なお、同記事には、今後、「業界団体の意見を踏まえ、厚労省が中小零細を規制の例外とする可能性はある」と書いてある。

 たしかに町の小さな喫茶店のなかには、店に入った瞬間、信じられないほどタバコの煙で充満した店も実際にある。喫煙者専門の喫茶店というのも実際にある。スナックなどの酒を飲む店は、客の多くが喫煙者というところもある。

 だが、そうした店を規制の対象外で片づけると、問題解決にはならない。だが、一律規制にしようとすると、店が潰れる、という声が出てきて、話がなかなか前に進まないのも事実。

 そこで例えば、中小零細の喫煙専門の喫茶、スナック系の店、そして前述の大手企業などの「分煙店」などの禁煙しない店は、店の看板、玄関ドア、ホームページ、名刺、広告等に、必ず、喫煙可を示す不気味な「タバコを吸っているドクロ」などのマークをデカデカと掲げ、米印で「当店は、タバコにより健康に害を及ぼす有害店なので、タバコを吸わない方はご遠慮願います」というふうに目立つ字で、日本語、英語、中国語、フランス語、スペイン語などの主要言語で示すことを義務付ける。

 また、そうした有害店には、事業許可の費用として、雇っている労働者数に応じて、けっこうな額を、数年おきに役所に納入するよう義務付ける。例えば、最低でも1千万円以上、大手企業なら億単位を、3年おきに払う、といった具合だ。喫煙者は、そうした有害店に流れ込むはずなので、その費用は負担できるはずである。そして、店が役所に納めたお金は、すべての禁煙店に対する補助金に充てる。

 また、有害店が労働者を雇う場合は、タバコを吸わない者を雇うことを禁ずる。喫煙者を雇う場合も、そこで働くといつまでも禁煙できない劣悪な環境なので、1か月単位の有期雇用契約のみ可で、残業も制限する。契約更新は1年未満に限る。

 これらに違反すると懲役を含む罰則を科す。このようにすると効果があるのではないか? (佐々木奎一)



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2017年01月24日

ダッタン

 「韃靼人の踊り」という曲にのり、米国のフィギュア選手ネイサン・チェンが四回転ジャンプを五回決めた映像を観た。
 「韃靼」というと、筆者は、司馬遼太郎さんが対談や随筆で「韃靼人」について、何度もかたっていたのを思い起こす。「韃靼疾風録」という小説も、司馬さんは書いている。
 司馬さんのいう「韃靼人」の雰囲気と、ネイサン・チェンの「異国風のイデダチ」での雄姿、そして「韃靼人の踊り」という曲が、絶妙に重なって観えて感慨深い。
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2017年01月22日

金魚以下に人間を劣化させるスマホの害悪

 平成二十九年一月十三月付、のauのニュースサイト


   EZニュースフラッシュ増刊号の「朝刊ピックアップ」で記事 


 「金魚以下に人間を劣化させるスマホの害悪」


 を企画、取材、執筆しました。




19日付の読売新聞朝刊に「そばにスマホ 注意力低下 あるだけでも…気を取られ 北大で実験」という記事がある。

 それによると、スマートフォンを「そばに置いてあるだけでも持ち主の注意力を低下させることを、北海道大学の河原純一郎特任准教授らが実験で確認した。(略)

 実験では、パソコンのモニター上で、様々な図形を映し出し、その中から『T』の形を被験者が見つけるまでの時間を測定した。被験者を20人と18人の二組に分け、一組にはモニター脇に被験者のスマホを置き、もう一組にはスマホと同じ大きさのメモ帳を置いて、実験に参加してもらった。

 その結果、見つけ出すまでの時間は、スマホの組が平均366秒で、メモ帳の組は平均305秒となり、スマホ組はメモ帳組より約20%遅くなった。

 河原特任准教授は『スマホに対して注意が向いてしまい、成績が悪くなったと考えられる』としている」という。

 なお、この論文は、日本心理学会の電子版国際誌「ジャパニーズ サイコロジカル リサーチ」に先月末に掲載したという。国際研究誌ではなく国内誌に載せている点からみて、学術的な信頼性には疑問符がつく点がなきにしもあらず、かもしれないが、こんな記事もある。それは110日付週刊ダイヤモンド電子版「現代人の集中力持続は金魚以下!IT進化で激減」。そこには、こう書いてある。

 「『金魚の集中力は9秒しか続かないとされています。では、現代人の集中力はどのくらい続くと思いますか』

 正解はなんと8秒。金魚よりも短いのだ。このデータは、米マイクロソフトのカナダの研究チームが20155月に実際に発表したものだ。約2000人の参加者の脳波などを測定した結果で、2000年は12秒だったヒトの集中力の持続時間が、13年には8秒まで短くなってしまったという。

なぜここまで現代人の集中力は短くなってしまったのか。最大の要因は、IT技術の進化に伴う環境の変化である。

まず、われわれを取り巻く情報量そのものが、飛躍的に増大した。米調査会社IDCによれば、1年間に生み出されるデジタルデータ量は、2000年の62億ギガバイトから、13年は4.4兆ギガバイトと約700倍に膨れ上がった。今後も増え続け、20年には、44兆ギガバイトまで膨らむと推定されている。

さらに、LINEやツイッターをはじめとする、SNSの新たなコミュニケーション手段が登場したことも、集中力の持続時間の低下に拍車を掛けた。

 『情報の豊かさは注意の貧困をつくる』。ノーベル経済学賞を受賞した知の巨人、ハーバート・サイモンが1970年代に看破したように、身の回りに溢れかえる情報が人間を振り回し、集中力を奪っているのだ」

 こうした「ITの進化と人間の劣化」の逆比例については、当コーナーでたびたび紹介している「ネット・バカ インターネットがわたしたちの脳にしていること」(著: ニコラス・G・カー/: 篠儀直子/青土社刊)に詳しい。が、スマホの横行により、近年は劣化に拍車がかかり、ついに人間は、金魚よりも落ち着きのない生き物になってしまった。

 そういう時代に、何らかの目標に向かって成長していきたい、という向上心のある人は、まずは、そうしたスマホ類を使わない、避ける、遠ざける、というところから始める方が、賢明である。

 ちなみに、2014910日付ニューヨークタイムズ電子版によると、スマホの象徴であるアイフォンの生みの親のアップル創業者スティーブ・ジョブズは、自分の子どもにアイフォンなどのIT機器は使わせていなかったという。これぞ、現代の英才教育の第一歩といえよう。(佐々木奎一)

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2017年01月18日

ナチスドイツとプラトン

 平成二十九年一月九月付、のauのニュースサイト


   EZニュースフラッシュ増刊号の「朝刊ピックアップ」で記事 


 「ナチスドイツの教訓


 を企画、取材、執筆しました。



4日付の時事通信電子版に「ヒトラー「わが闘争」、再版でベストセラーに ドイツ」という記事がある。それによると、「アドルフ・ヒトラーの著書『わが闘争』を第2次世界大戦後初めてドイツ国内で再出版したミュンヘンの現代史研究所は3日、同著が予想外のベストセラーとなったと発表した」「ヒトラーの反ユダヤ思想などが記された同著は、2015年末で著作権の保護期間が切れたことを受け、昨年1月に注釈付きで再版されていた。同研究所によると、これまでに約85000部が売れたという」

 なお、在英ジャーナリスト木村正人氏によれば、定価58ユーロ(約7100円)の学術書「わが闘争」が売れたのは、図書館や学校、歴史家が一斉に購入したのが理由という。(4日付ヤフーニュース記事)

 要するに、「わが闘争」は、大衆に爆発的に売れているわけではない、ということになる。

 なお、再販した現代史研究所のアンドレアス・ヴァーシング所長は「権威主義の政治思想や極右のスローガンが蘇っている今だからこそ、『わが闘争』の再出版を通じてヒトラーの世界観とプロパガンダを議論することは全体主義思想の数え切れない根源とそれがもたらす結果を考える大切な機会を与えてくれるでしょう」と話しているという。(同記事)

 枕詞はこのくらいにして、本題に入ろう。「ナチスの教訓」といっても多々あるが、一例を挙げると、6日付当コーナーで紹介した、民主政の批判者プラトンを、ナチスは都合よく利用していた。そのことは「プラトンの呪縛」(著: 佐々木/講談社刊)に詳しい。

 同書によると、ナチスのイデオローグとして有名だったアルフレート・ローゼンベルクは、1933年の党大会(「勝利の党大会」)で、マルクス主義の平等原理を批判し、共産主義が多用な民族組織にひきつけを起こし、何百万人、それどころか、民族全体を抹殺するとしても、最後には自然が勝利する、と言った後、こう演説している。

 「それはかつてプラトンが言ったことのようになっているからである。すなわち、平等を説く人の『魔法の歌と詐欺』によって優れた者を『若い獅子を捕らえるように』騙そうとするアテナイの法は、生の要求を破壊するものである。しかし、一人の者がそれから自由になると、彼はこの間違った魔法の手段を破壊し、『自然の法』に基づいて堂々と立ち現れる」

 要するに、ナチスは、プラトンのいう、自然の法に基づいている。だから、平等を説くアテネのような共産主義を必ず倒すことができる、という趣旨の演説である。

 また、ナチスお抱えの人種研究者ハンス・ギュンターは、プラトンが血統を重視する記述をしていたことをたてに取る論文を発表している。そこには、こういう下りがある。

 「哲学への適合性は種の問題だ! それに携わるのは、選ばれた集団の仕事だ! このように賢者の中の一人は考えている。(中略)純血の人間のみが哲学をする! いくぶんなりとプラトンが意識していたとして、われわれが――人種研究から学びつつ――認めなければならないのは、ソフィストとともに西南アジア人がギリシア精神に対する支配権を握り、それまで重きをなしていた北方の魂がギリシアで死んだということではないか? こうした洞察がプラトンの言葉の背後に潜んでいる」と。

 このように、ギュンターは、人種が人間の能力を根本的に規定していると説く。そして、ここでいう、ギリシア人に対して支配権を握った西南アジア人とは、ユダヤ人と見られる。

 こうしたことを通し、同書は「プラトンは民主制と自由主義、共産主義に対する効果的な攻撃武器として動員された。当時の言葉でいえば、プラトンは貴族主義的な体制――人種を基礎とした――に対する大きな支援者」だったと指摘している。

 このように、プラトンを利用する輩こそ、まさにプラトンのいう、「絶えず戦争を引き起こす」「僣主」といえよう。今後も、ナチスのような形でプラトンを持ち出す者が出てくるかもしれないので、用心しなければならない。

 それに、プラトンは、完全な民主制の排除を志向していたわけではない。

 「民主主義の源流 古代アテネの実験」(著: 橋場弦/講談社刊)に、古代アテネの「民衆裁判所」についての下りがある。それはソクラテスを葬ったシステムでもある。

 前4世紀の民衆裁判所は、一般市民は希望すれば誰でも終身の裁判員になれた。こうして数千人の裁判員がいた。例えば、公法上の裁判6件があり、裁判が行われるとする。この場合、各小法廷に501人の裁判員が必要で、計3000人(端数切り捨て)が要る。

 そこで、裁判当日、まず、1回目の抽選により、数千人の中から3000人の裁判員を選ぶ。次いで2回目の抽選で、各法廷の分属を決める。そして、3回目の抽選で、どの小法廷が、どの事件を担当するかを決める。

 こうして不正買収の入り込む余地をなくさせて、トランプのカードのシャッフルのようにして決めていく。そして、重大な事件の裁判ほど、裁判員の数を1000人、1500人と増やしていた。

 同書には、こうある。

 「以上のようなアテネの民衆裁判を、素人が集まって行う危険な裁判ではないかと感じる読者も多いかもしれない。自分が裁かれる立場に置かれたら、こんな群衆裁判なぞこわくてごめんだと考える人もあろう。

 事実アテネの民衆裁判は、すでに同時代の哲学者から厳しい非難を浴びていた。ソクラテスはこともあろうに自分の命がかかっている裁判の法廷で、民衆裁判を侮辱するような発言をし、裁判員の心証を悪くして死刑の判決を受ける。師をこのようにして葬ったプラトンは、裁判員の抽選制を厳しく批判し、上級審では専門教育を受けて厳正な試験に合格した職権裁判官を導入すべきだと主張した。(中略)

 アテネの民衆裁判所においては近代の陪審制とことなり反対尋問も認められず、また裁判員どうしの議論もなく、せいぜい一日程度の審理で一審かつ終審の判決が下される。はなはだ頼りない裁判である。さらに、多くの裁判員は法律の専門技能に欠けた素人で、彼らの判断を動かすのは非合理な情実である」

 このように、民衆裁判は、現代の国民投票、選挙に似た危うさがある。だが、この民衆裁判を批判していたプラトンでさえ、こう述べている。

 「国家に対する罪を告発するにあたっては、まず大衆が裁判に参加することが不可欠である。なぜなら、もし誰かが国家に対して不正を働くならば、被害当事者とは市民全体のことであるし、もし彼らがこのような犯罪の裁判に何の参加も許されないならば、憤るであろうことは無理もないからである。ただし、そのような手続きの最初と最後は民衆に委譲されなければならないが、審理は原告・被告双方が同意する三人の最高位の役人に委ねられるべきである」「また私法上の訴えにおいても、できうる限りすべての市民が裁判に参加すべきである。なぜなら、裁判に参加する権能にあずからぬ人は、自分が国家の一員であるとは全然考えないからである」(『国家』七六七E―七六八B)」

 このようにプラトンは「あくまで裁き手の資質や教育程度を問題にするのであって、民衆参加の原理そのものを否定しているのではないようだ」と同書は記している。

 ただし、アテネの市民とは、「われわれの想像以上に政治意識が高く、また自律的な市民であった。またそうであることを理想とした。生産労働に専念するのは奴隷や在留外人にふさわしいとされ、政治や軍事そして裁判に参加できることこそ、市民の特権であり名誉であった。だから彼ら本来の仕事とは、ポリスの公務に従事することにほかならない」「彼らを現代的な意味で政治や裁判の素人と断定することは、たいへんかたよた見方である」(同書)という。

 いまの日本はどうだろう。アテネの民衆よりもはるかに意識が劣っているであろう我々現代人は、プラトンから見て、今の国民投票、選挙という形による政治参加をする資質は、あるといえるだろうか? 九分九厘その資質なし、と判定するのではないか?

 では、民主主義の危機といわれる時代に、どうすればよいのか――たとえば、我々国民には職業選択の自由があるが、現実には資格が必要な職業が多々ある。たとえば、裁判官、海上保安官、医師、理容師などなど。また、車やバイク、ボートを運転するにも、免許というものが必要である。つまり、民衆として国民投票により政治参加するのも、たとえば、数年おきの試験により、一人一人の見識学識、モラル等々で判別して、有権者の一票に格差をつける(例:ある人は1000票分投票できて、ある人は1票分)といった具合にすることにより、プラトンが指摘するような民主主義が陥りがちな欠点を防いでいくことができるのではないか。(佐々木奎一)

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2017年01月15日

『民主主義の危機』とプラトンの言葉

 平成二十九年一月六月付、のauのニュースサイト


   EZニュースフラッシュ増刊号の「朝刊ピックアップ」で記事 


 「『民主主義の危機』とプラトンの言葉」


 を企画、取材、執筆しました。




 最近の諸情勢を観るにつけ、「民主主義の危機」を感じる人々は多いに違いない。メディアの記事にも、そうした論調が目立つようになってきた。例えば、14日付のロイター通信電子版の記事「コラム 停滞する民主主義、見限るのはまだ早い」には、こうある。

 「2016年は民主主義の限界と欠陥がはっきりと露呈した1年となった」「今年、欧州で経験の乏しい2つの大国が国民投票を実施し、それぞれの政府が推奨していた政治的選択が却下された。英国民は欧州連合(EU)からの離脱を選択し、イタリアでは憲法改正が否決された。その結果、イタリアのレンツィ首相、英国のキャメロン首相が辞任した。イタリアでは第2次大戦後以降、英国では何世紀にもわたり、国会が最高立法機関として位置づけられている。

 国民投票は今や、ポピュリスト政党のお気に入りの手段となっている。こうした政党は、民衆の反発を利用し、これを誘導することができると信じているからだ。これこそが民衆の声、そうではないのか、と。」

 「一方、独裁主義は復権を果たしつつある。

 ロシアのプーチン大統領が米タイム誌の『今年の人』候補に選ばれたのは、ウクライナ、シリア、そしてロシアにおいて(いかに暴力的なものであれ)成功を収めていることへの評価であり、世論調査によれば依然、圧倒的な国民の支持を得ている。プーチン氏同様、高い支持を集める独裁的リーダーとしては、中国の習近平主席、トルコのエルドアン大統領、フィリピンのドゥテルテ大統領などが挙げられる」

 とこのように記している。

 また、11日付朝日新聞朝刊の1面トップに「試される民主主義」「我々はどこから来て、どこへ向かうのか」という記事が載っている。記事は冒頭、「民意が暴走しているようにみえる。民主制の先輩である欧米でも次々と。これは民主主義の失敗なのか」とあり、本文には、こう書いてある。

 「そもそも歴史をさかのぼれば、民主主義は『危険思想』とされていた。東京大学の森政稔教授(政治思想史)はそう説く」「『トランプ氏のようなポピュリズムは、本来はバラバラの人たちの中に、無理やり多数派を作り出す。敵を名指す虚構の言葉で人々を結集させる。これは、民主主義が持つ危うい側面です』と森教授は言う」

 ちなみに、現代民主主義の「源流」である古代アテネでは、いまから2500年前から、民主政治が行われていた。その時代を生きたプラトンは、民主政治について、こう述べている。(以下、「プラトン」(著: ジャン・ブラン著/: 戸塚七郎訳/白水社)より抜粋)

 「寡頭制は居候や放蕩者やぐうたら者の出現を助長した。そしてついに『貧乏人がその敵に打ち勝って、ある者は殺し、ある者は追放に処し、そして、残った連中で平等に国制や行政の職を分配する時、民主制が確立する。またそこでは、しばしば行政の職すら籖によって決められるのである』(五五七a、※筆者注、以下、漢数字のページ表記は『国家』八巻より)。このような国制の合い言葉は自由であり、そこでは誰もが自分の気に入った種類の生活を送る。『しかし、この国家においては、たとえその能力があっても、命令することを強制されないし、それを欲しなければ服従することも強制されないということ、また、他人が戦争をしている時でも戦争するように強いられないし、もし平和を少しも望まないのなら、他人が平和を守っていても、平和を守るよう強いられることもないということ、また他方、君がひょっとしてその気になるならば、法が支配や裁判を一切禁止しようとも、命令したり裁いたりしてもよいということ、このような生活は、さしあたり、この上なく素晴らしく楽しいことではないかね。……』

 「『好ましく、そして無政府的で種々雑多な彩どりを持ち、等しからぬものに対しても、等しいものと同じように一種の平等を与える』この国制は、権威のはなはだしい危機を示している。

 民主制的な人間は、自然的でもなければ必要でもない快楽に関心を寄せ、『くる日もくる日も、目の前に現われる欲望を悦ばすことで過ごしている。つまり、今日は笛の音に耳傾けて酔いしれ、明日は水を飲んで痩せ細る努力をする。またある時は体育に精を出し、ある時はのらくらして何ごとにも無関心である。また時折は、哲学に没頭しているように思われることもあるだろう。また、しばしば政治家となり、演壇に飛び上って、たまたま思いついたことを何でも言ったりしたりする。またある時は、軍人というものが羨ましくなり、そちらの方へ向って行くが、ある時は商人が羨ましくなって、商売に身を投ずる。一口に言えば、彼は自分の行為の中に秩序も必然性も認めていないのだ』(五六一c)」

 そして、この民主政の堕落が、「僣主制」を現出する、とプラトンは指摘している。

 「民主制を僣主制にやがて堕落させるのは、それ以外のすべてに対する無関心な態度から生じたこの善に対するあくなき欲望である。自由に対する貪欲は放縦と無政府状態を誘い出し、支配者は嘲弄され、親父は自分の息子を対等に扱い、かつ息子を恐れることに慣れ、また息子はもはや父親に尊敬の念を抱かず、教師は生徒を恐れてへつらい、生徒は自分たちの先生を軽蔑する。このようにして、『過度の自由は、個人の場合でも、恐らく過度の隷属以外のものには帰着しえないであろう。……それゆえに、当然、僣主制は民主制以外のどんな国制からも生じてくるのではない』(五六四a

 その時、人々は自分たちの気に入った者を頼りにし、そのものを自分たちの先頭に立て、養育して力を強くしてやる。この僣主は『絶えず戦争をひき起こすが、それは、人々が指導者を必要とすることを意図してのことであり、……さらにまた、市民たちが税金のために貧乏になって、止むをえず日々の糧に気をとられ、自分に対する謀反の企てが少なくなるためである』(五六六e)。いつも戦いをひき起こさなければならないから、僣主は、自分がその憎しみの的となるような市民たちからわが身を守るために、個人的な護衛を持つことも必要である。相当の給料を払ってやれば、警護の任につくために到る所から志願者がやってくるであろう。また彼は、自分自身と自分の政治とに対する讃辞を、報酬を払って詩人たちに書かせるようにさえなるであろう」

 ではどうすればよいのか。プラトンは、「理想的国家」を志向している。

 プラトンはそのために、「特に教育に関して、多数の細目を示している。軍人たちの教育は体育と音楽によって規正されなければならない。しかし、好き勝手な種類の音楽や、好きな型の楽器を選ばせないことが肝要であろう」「作家の活動も仔細に監督されることになろう。まず第一に、“よい”物語だけを作品の中に留めおくよう物語作家を監督し、とにかく子供の魂を形成する目的で、乳母にその物語を用いさせることが必要となろう(『国家』二巻三七七c以下)。

 「求めなければならないのは、『美しいものや、上品なものの本性を追い求める才に恵まれた芸術家たちであろう。それは、若者たちが、ちょうど健康的な地方の住人のように、あらゆるものから利益を得るためである。つまり、どのようなところからにせよ、とにかく美くしい作品から出た芳香が彼ら若者たちの視覚や聴覚を打ち、彼らがそれをあたかも微風のように、すなわち健康的な地方から健康を運んできて、彼らが子供の頃から、気づかないうちに美しいものを愛し、それを模倣し、彼らと美しいものとの間に完全な調和を置くようにしむける、微風のように感ずるためである』(同書四〇一c)」

 「理想国家の支配は、哲学者によって確固たるものとされるであろう。なぜなら、哲学者だけが真理と幸福とを知っているからである。哲学者は知への情熱に燃えている。彼は真摯で、節制的で、貪欲なところがなく、優れた記憶力に恵まれている。しばしば、哲学者は国家にとって無用であると言われるが、だがその責任は、彼らを用いることができない人々に向けられるべきであって、知者自身に向けられるべきではない(同書六巻四八九b)。それゆえに、哲学者は国家の生存に欠くことのできない者である」

 国家の未来の指導者に対する教育として、「まず第一に目につくのは算術で(同書七巻五二二c)、これは魂に叡知のみを用いさせ、かくして真理をそれ自体として獲得させるという優れた長所を持っている。事実、数が理解されうるのは、ただ思考のみによってであって、どんな方法によってでも、感覚でもってそれを取り扱うことはできない(五二六ab)。次は幾何学であるが(五二六c)、それは「常に有るものの認識」であるから、魂を感性界から解放して真理へ導いて行くのに適している(五二七b)。天文学は魂を導いて行って上方を眺めさせる学問で、存在と不可視なるものとをその対象としている(五二九b)。この学問は、認識は感覚的なものを何一つ持たないという考えをわれわれに確信させる。最後に、哲学者は調和の学(それは音楽であるが)を学ぶことになるだろう。

 しかしながら、これらの学問はすべて最高の知識の、すなわち弁証術の序曲にすぎない。幾何学やそれに関連する学芸は、存在をただ夢の中で認識しているだけである。弁証家とは、すでに見たように、あらゆるものの本質の認識に達している者であって(五三四b)、彼のみが万物に及ぶ“綜観”(synopsis)を所有しており(五三七c)、この綜観が善のイデアの光によって世界を見ることを可能にしているのである。」

 なお、プラトンのいう理想的政治は、ただ一人が支配するところから「君主制」、あるいは「貴族制」と呼ばれるが、同書は、「貴族制」は適切ではなく、「むしろ優者制と言わるべきであろう。すなわち、この国制においては、多数の中で、知識においても戦事に関しても、優秀であることを認められた者が王になるのである」と指摘している。

 プラトンの洞察は、現代にそぐわない点はあるにせよ、参考になる点はあるに違いない。(佐々木奎一)


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2017年01月12日

猫と共にあれ

 今日、ガス業者の男性が、自宅に来た。
 その業者が居間に入った時、うちの猫がいるのに気づいた。
 すると、にわかに、その人は、相好を崩し、
 「うちも猫飼ってるんです」
 と言った。

 そのときの満面の笑みは、これまで会った数え切れないほどの業者のなかで、最も、いい笑顔だった。
 猫は、平和の使者である。

 その人が帰るとき、筆者は、「フォースと共にあれ」という、映画のワンシーンを連想し、
 「猫と共にあれ」、と心のなかであいさつした。
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2017年01月09日

野党の地力

 平成二十九年一月二月付、のauのニュースサイト


   EZニュースフラッシュ増刊号の「朝刊ピックアップ」で記事 


 「あのニュース今年はどうなる 国内政治編 野党の地力」


 を企画、取材、執筆しました。



2017年の国内政治の注目点は、野党第一党が地力をつけるかどうか、である。なぜか。

 周知のとおり、改憲を何としても成し遂げたい安倍晋三首相は、昨年の参院選後、幹事長に、総裁任期延長を持ち上げるゴマスリ・二階俊博氏(77)を据えた。自民党の総裁任期は党則で連続26年まで。つまり、本来なら、安倍氏の任期は20189月までだったのが、太鼓持ち・二階氏の音頭により、39年まで、となった。これで安倍氏は20219月まで総理総裁のイスに居座る環境が整った。

 だが、衆院任期満了(181213日)まで2年を切っている状況で、悪名高い「自民党改憲草案」を現実化するとなると、支持率が下がることは避けられない。つまり、このまま改憲を強引に実行すると、次の選挙で負ける。

 だから、安倍自公政権は、まず、次の衆院選で大勝し、引き続き与党で衆参ともに3分の2の議席を確保した状態で、じっくりと腰を据えて憲法改正を実行したい。

 現状のような「次の衆院選のときに支持率を下げられないから、無理矢理に改憲できない」という「後顧の憂い」を絶った状態で、改憲したい。

 それにより支持率が急落しても、1年以上かけて国民の目を引く政策(アメダマ)を大量導入して、支持率を回復させ、改憲のことを有権者たちがすっかり忘れた時点で、満を持して次の衆院選をしたい、と切に思っているに違いない。

 そして、今年722日には東京都議会議員の任期が満了となり、都議選が行われる。無論、この都議選も、公明党の支持母体創価学会は、集票マシーン活動に専念したい。都議選と衆院選の時期が重なり、集票マシーンである創価学会の信者たちが都議選に集中できなくなる事態だけは、避けたいと思っている。

 だから、都議選より半年近く前か、都議選のあとに総選挙をする、というのが、自公のあいだで暗黙の了解となっている。

 そこで、昨年末、あるいは今年初めに解散という解散風が盛んに自公から流れた。当初の見立てでは、ロシアのプーチン大統領を山口で迎え、北方領土の2島返還という歴史的な外交実績を目玉としていたようだが、その目論見は崩れたため、解散は先送りしたように見受けられる。(161220日執筆時点)

 そうすると、都議選のあと、つまり、今年の8月以降、来年12月までのどこかで解散総選挙、ということになる。

 なお、都議会で公明党が、にわかに自民党と決裂の様相をみせている。そのことが国政にも影響を与えるのではないか、つまり、自公連立が解消されるのではないか、と推測する者もいる。仮にそうなれば、改憲どころではなくなるわけだが、その芽はほとんどなさそうである。

 ちなみに、にわかに分裂した、というのは、昨年1214日夜、にわかに都議会公明党・東村邦浩幹事長が、「自民党との信義という観点でこれまでやってきたが、完全に崩れたと思って結構だ」と発言したことを指す。

 この発言により、40年間も続いた自民党との蜜月関係は終わったことになる。

 なお、ここでいう「信義が崩れた」という経緯は、11月に開かれた「議会のあり方検討会」の前に、議員報酬の2割削減、政務活動費の減額、本会議などに出席する度に最低1万円が出る費用弁償を実費支給にする、などを柱とする公明案が報道されたことにより、事前報道に反発した自民が「公明が修正案を出すか、検討会で公明を除いて議論を進めるしかない」と求め、公明は修正を拒否、両者の溝が埋まらないまま、自民が12月の検討会開催を通告し、公明が離脱を決めた、というもの。(毎日新聞電子版より)

 この程度のことで40年間の蜜月が終わるというのは、にわかには信じ難く、実に、うさんくさい話である。

 しかも、この「信義が崩れた」発言と同時に、この東村氏は、「知事が進める東京大改革については、公明党も大賛成」と、あからさまに小池百合子・東京都知事に秋波を送っている始末。この節操のなさ自体、信義のかけらも感じせない。

 なお、小池氏は、都議会自民党との対決姿勢で、テレビ受けして支持率を上げている。東京オリンピック後は、国政に戻り、総理の座に就こう、という野望を小池氏は持っている、とも目されている。

 その自民党と小池陣営の対立、というパフォーマンスの一環で、小池氏は都議会で新会派をつくる動きもみせてる。

 要するに、公明党は、小池氏が勝ち馬に乗る、と踏み、40年の付き合いの自民党を突如見捨てて、小池氏に乗り換えた。

 では、それが国政に影響するだろうか――。

 東洋経済オンライン1216日付の「都議会公明党が自民党に決別を宣言した真因」によると、この一方的な縁切り発言の数日前に公明党都議が「もう自民党には我慢できない。特に高木啓幹事長は、あまりにも横暴だ。もう彼が首を差し出しても、元に戻らないところまできている。国政とは別の話だが」と、述べたという。

 「国政とは別の話だが」、である。

 先例はある。かつて大阪維新の会という地域政党で、橋下徹氏が、盛んに自民党や公明党などの既成政党と対立した。例によってその対立構図をおもしろおかしくメディアが取り上げ、支持率は急上昇した。

 だが、国政レベルでみると、どうだったか。周知のように安倍氏と橋下氏は、緊密に会談を重ねる間柄で、国政に進出した維新の会は、自民党の補完勢力として、いまや限りなく与党に近い存在になっている。

 似た現象が今、都政で起きている。つまり、小池氏が今後、自民党との対決を演じ、公明党は小池氏という勝ち馬に乗り、小池陣営が都議会で勝ち、国政に進出したとしよう。

 そのとき、小池氏は、昨年まで自民党の国会議員だったこと、現時点でも自民党員であることなどからみて、国政で自民党と組むに違いない。小池氏は、自民党の国会議員に戻るかもしれない。つまり、そのときは、自民、公明、小池、維新による連立政権となることだろう。

 要するに、都議会での公明党の動向は、国政レベルでは影響しそうにない。

 つまり、国政で自民党と公明党が分裂する、などという淡くはかない観測は控えた無難である。自公維による自民党改憲草案の実現を阻止するためには、野党が地力をつける以外にない。なかでも、野党第一党の民進党が力をつけるかどうかが焦点である。

 そして、その意味で、憂うべき点は多々ある。たとえば、これはほんの一例だが、昨年4月に民進党が結党した。このとき、同党HPでは、党員募集のページを閉鎖した。それは結党してバタバタしているためなのかと思いきや、それから参院選後まで延々と閉鎖したままで、挙句の果てに、今年は募集を締め切りました、と表示されるようになった。そして、にわかに、昨年11月あたりから、党員募集のページができた。

 募集ページに氏名等を入力すると、おって最寄りのエリアの民進党の事務所から連絡がくる、という。だが、ふたを開けてみると、党員募集は今年度は終了している、このページから募集した人は来年度から党員となる、という悠長なものだった。

 党員=集票マシーン化するようなガンジガラメの党は御免被りたいものだが、民進党のゆるさも、驚嘆すべきものがある。ほかの党なら、募集した人はすぐにでも党員にして戦力にしていくことだろう。

 なお、不思議なもので、党員に属すると、往々にして、人の意識というのは変わるものだ。自然に、その党に属している、という意識に変わる。たとえば、どこかの政党の党員になれば、国会でその政党の議員がどういう言動をしているか、とか、党首がテレビに出てこんなこと言っていた、といった情報にも目がいくようになったりする。

 だから、明らかに、政党にとって、党員を増やすというのは、重要である。それは選挙の勝敗にも直結する。

 それだから、民進党の機関紙では、結党当初から、党員を増やしていかなければいけない、という意味のことを、党首が語ったりしている。それなのに、実体は、上記のとおりである。

 いったいこれは何なのか。

 いうまでもなく、民進党の支持母体は連合である。その連合というのは、巨大企業の労組が中心。そして、巨大企業の労組というのは、ユニオン・ショップ協定といって、労使協調の、対立のない、経営者寄りの労組が中心である。そのため、連合の労組出身の民進党の国会議員のなかには、その企業の利益のために国会活動している者もいる。それは、あたかも経団連の裏部隊のような存在といっても過言ではない。

 そういう体質を色濃くする連合と経団連にとっては、民進党は、連合が牛耳っている方が都合がよい。

 要するに、選挙がいつあってもおかしくない、という状況下で、民進党が党員募集をシャットアウトしたのは、

連合≒経団連を益するためではないか、と疑わざるを得ない。

 そんな民進党と連合の体質が、原発政策において世間に露呈したことは、当サイト161024日付で伝えた通り。

 ただし、だからといって、民進党は、連合と絶縁すべき、といっているわけではない。連合の言いなりではいけない、といっているのである。

 つまり、連合依存症から脱却できるかどうか。

 党員を増やしていけるかどうか。

 そして、野党共闘できるかどうか。主義主張が違う、とか、あいつは嫌い、といった基準で行動するのは、書生の類のすることである。少数野党で対立するのは、自公を利するだけである。よって大局で判断して動けるかどうか。

 こうした点からみて、野党が地力をつけることができるかが今年の焦点である。(佐々木奎一)



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2017年01月07日

国民年金滞納の実体

 平成二十八年十二月二十六月付、のauのニュースサイト


   EZニュースフラッシュ増刊号の「朝刊ピックアップ」で記事 


 「国民年金滞納の実体」


 を企画、取材、執筆しました。



 「年金滞納者、大半が免除対象」という記事が7日付の朝日新聞朝刊にある。それによると、「国民年金の保険料を滞納している人のうち9割以上が、所得が低いため申請すれば支払いの一部もしくは全額を免除される可能性が高いことが分かった。6日の参院厚生労働委員会で、日本維新の会の東徹氏の質問に塩崎恭久厚労相らが明らかにした。

 厚労省は低迷する納付率を上げるため滞納者への強制徴収を進めているが、低所得者に対する強制徴収は「現実的に困難」(塩崎氏)という。

 国民年金保険料を2年間以上滞納している人は2015年度末で約206万人に上る。厚労省は年間所得が350万円以上の滞納者を強制徴収の対象としているが、来年度以降は300万円以上に拡大する。

 しかし、厚労省の実態調査では年間所得300万円未満が94%を占め、300万〜350万円が2%350万円以上は4%にとどまる。厚労省は『対象者のうち相当数が督促済み。強制徴収できる対象者はかなり限定的だ』としている」という。

 このように国民年金を2年以上滞納している人は206万人いる。これらの人々は、制度をちゃんと知っていれば、滞納者にならずに済んだ。

 あまり知られていないが、国民年金には、保険料の全額、4分の3、半額、4分の1の各免除や、学生納付特例、納付猶予制度といった免除制度がある。例えば、扶養親族のいない人で所得が57万円以下だと、保険料(今年度は毎月16,260円)は全額免除される。それでいて、そのうちの半分の額(8,130円)は払ったこととして、年金計算にカウントされる。

 老後の年金だけではない。ちゃんと免除の申請をしていれば、もしも事故や病気等で重度の障害に陥った場合に、障害基礎年金が支給される。滞納者には、出ない。

 このような制度を知らないため、デメリットを受ける、という構図は、当サイト122日付で報じた、生活保護の不正受給と似てる。これは例えば、生活保護受給世帯の子どもである高校生などが、大学入学金の資金のためアルバイトをして、役所にそのことは申告していなかったとする。この場合、あとで役所がその申告漏れの所得を把握することになる。その時、役所は、余計に生活保護費を支給した分を返せ、といって返金を迫ることになる。だが、進学のための費用を賄うためのアルバイトの場合、申請して適用されれば、返金する必要はない、という制度が実在する。つまり、その制度を知らないばっかりに、生活保護の不正受給者となる人が多いのが実情である。

 年金によ、生活保護にせよ、役人たちが、免除の制度があることをちゃんと説明しないのは、財源支出を抑えるため、とみられる。要するに、申請主義により、制度を知らない人は、ときに人生を左右するほどのデメリットを被る。説明しない役人がわるい、といくら言っても、知らない方がわるい、となるのが落ちである。

 だが、年金制度を知るといっても、周知のように、年金制度はめまぐるしく変化しており、ちゃんと把握するのはなかなか困難である。

 かといって、例えば上記の滞納者206万人が、年金事務所に制度を聞くとなると、そもそもスタッフが足りず、物理的にも不可能といえよう。

 では、どうすればよいか。公的年金の専門家でちゃんと勉強している社労士(社会保険労務士)に相談するのがベストといえよう。もちろん、社労士に相談するにしても、それなりのお金がかかるが、上記の年金滞納のケースでは、2年間で約40万円、20年間なら約400万円もの年金保険料を払ったことになるか、丸々滞納になるかがかかっている。要するに、社労士に相談した方がはるかに安くつくのに、滞納に比べればほんのわずかな費用をけちっているのが実体である。

 なお、相談する費用をねん出することすら困難という言い分もあることだろう。法律相談の場合は、法テラスという国の機関があるので、低所得者は無料で弁護士や司法書士に法律相談をすることができる。この法テラスの社会保険版のようなシステムをつくるか、あるいは法テラスに社労士を加えると効果的ではないだろうか。無年金者は減り、生活保護にならずに済む人数が増えて、結局、全体の財政支出は抑えることができることだろう。(佐々木奎一)

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2017年01月05日

島根県立大殺人事件、7年がけの捜査で犯人判明

 平成二十八年十二月二十二月付、のauのニュースサイト


   EZニュースフラッシュ増刊号の「朝刊ピックアップ」で記事 


 「島根県立大殺人事件、7年がけの捜査で犯人判明」


 を企画、取材、執筆しました。



0910月に島根県立大1年の平岡都(みやこ)さん(当時19)がバラバラの死体で山中で発見された事件。その犯人が、にわかに特定された、というニュースが先週飛び込んできた。

 事件の概要は次の通り(以下、朝日新聞より)。平岡さんは091026日午後915分頃、浜田市港町のショッピングセンター内にあるアイスクリーム販売店でアルバイトを終えた後、約2.6km離れた女子学生寮に徒歩で約30分かけて帰えるために、バイト先を出てから、ぷっつりと足取りが途絶えた。学生寮までの道のりには、人通りの少ない真っ暗闇の山中の道もあった。遺族によると、ショッピングセンターでのアルバイトは夜遅くなり、危ないため、事件の3日後の29日からは浜田市内の別のアルバイト先で働くことが決まっていた最中だった。

 平岡さんがバイトをしていたのは、留学資金を貯めるためで、将来は語学を活かし、発展途上国の飢餓と貧困に立ち向かいたいという情熱を持ち、授業も熱心に受けていた。

11月に入ると、記者クラブメディアが平岡さんの顔写真入りで「19歳女子大生が行方不明」といった見出しで報道するようになった。

 そうしたなか116日午後、キノコ狩りに来ていた男性が、アルバイト先から約25kmにある広島県北広島町の臥竜山の山頂付近のがけ下で、女性の頭部を発見。7日未明、DNA型鑑定により、平岡さんと確認され、島根、広島両県警は死体損壊・同遺棄事件として浜田署に合同捜査本部を設置した。その後、警察の捜索で、平岡さんの大腿骨、胴体、左足首などが次々と臥竜山で見つかった。

 そして、平岡さんの靴の靴の片方が発見された。場所は、アルバイト先からの帰宅路の山道から東に約50メートル入った、国道9号バイパスの側道沿いの側溝。学生寮までは約800メートルの地点。バイト先から寮までの経路の曲がりくねった山道は車1台が通るのがやっとの狭さだが、バイパスの高架をくぐる付近で幅が16メートルに急に広がる。捜査幹部は「高架下あたりに車を止めて待ち伏せ、山道から側道に逃げた女子学生を無理に乗せたとみるのが自然」と見ていた。

 現場近くの自営業の女性(62)は、買い物袋を下げた女子学生が夜、現場近くの山道を歩いているのを見かけることもあり、「靴が見つかった付近は隠れ場所になるので、人を襲うつもりでいるような人なら、格好の場所に見えるはずだ」という。

 この道を車で通勤している女性(57)は「人通りもなく、暗く、車でも気持ち悪い場所。急に来て分かるような場所ではない。たまたま通りかかることも考えづらく、知った人でないと来ないと思う」という。

 だが、その後、捜査は難航。年が明け10120日には、当時の警察庁の安藤隆春長官が、現場を視察した。安藤長官は「国民に計り知れない不安を与え、日本の治安に影響を与えかねない重大事件」「日本警察の総力を挙げて早期に解決しなければならない。事件の背景、動機がわからず、全容を解明することが同種事件の抑止につながる」と述べた。安藤長官は、臥竜山の遺体発見現場を視察し、合同捜査本部のある島根県警浜田署、そして県立大を訪れ、平岡さんの遺影が飾られた会議室の献花台に花を手向け、祈りをささげた。警察庁によると、未解決の重大事件の現場を長官が訪れるのは異例。

 翌月、警察は、犯人逮捕につながる有力情報の提供者に、国費で最高300万円の懸賞金を支払う「捜査特別報奨金制度」を適用する方針を決定した。

 捜査本部は当初は190人態勢だったが、翌106月に140人に縮小し、114月には125人となったが、それでも相当数を投入しており、警察の強い意志と執念が窺える。

 だが、1210月時点で、車両約40万台、空き家や廃屋約8千カ所も捜査しているが、有力な情報は得られていない、という状況だった。

134月からは110人体制となったが、「必ず解決するという気持ちで、残った者が力を入れて頑張る」と現場は強調。

 こうして執念の捜査が続くなか、先週にわかに犯人の男が特定されたという。犯人は事件当時、遺体が見つかった広島県北広島町に隣接する島根県益田市に住み、遺体発見の2日後の09118日午後、山口県美祢市の中国自動車道で運転中、ガードレールに衝突し、車は炎上。同乗の50代の母親も死亡した。「事故に不審な点はなく、長距離運転による疲労ということだった」(別の捜査関係者)という。

 今年に入り、島根県を中心に素行に問題があった人物の洗い出しを改めて進めた結果、男の存在が浮上。遺体が見つかる直前に臥竜山周辺を走行していた車の記録を捜査本部が調べたところ、男の車も確認された。時間的にも男が遺体を遺棄するために現場に来たとみて矛盾がない「捜査の『網』を広げた結果」と捜査幹部は話しているという。

 さらに、平岡さんが行方不明になった当日、犯人の車が浜田市内を走行する記録が確認された。そして、決定的なのは、犯人はデジタルカメラとUSBメモリー。犯人は平岡さんの遺体や文化包丁など約40枚を撮影し、その画像を消去していた。捜査本部が復元したところ、それらの画像は、当日夜頃の約1時間半の間に容疑者宅で撮影されたものと判明したという。

 その犯人は、矢野富栄(よしはる、当時33)。

 近所の住民らによると、矢野は山口県下関市で米穀店を営む両親と弟の4人家族に育ち、北九州市内の高校に進学。「一言でいうと真面目なタイプ」と高校の同級生だった40代の男性は話す。理系のクラスに所属。口数は少ないが、暗い性格ではなく柔道が強かったという。

094月、下関市のソーラーパネル販売会社に就職。事件の約5か月前から、島根県益田市内の一軒家を拠点に訪問販売に携わった。平岡さんが住んでいた同県浜田市にも営業で出入りしていた。

 会員制交流サイトでは「dr.よしゆき」を名乗り、趣味の音楽や仕事の愚痴を書き込んでいた。プロフィルには茶色に髪を染めた横顔を掲載し、「来る者は拒まず去る者は地獄の果てまで追って行きます」などと記した。

 パネル販売会社に入り、「今日、やっと1本契約取れた♪」と仕事の状況もぽつぽつと記録していった。サイトで矢野容疑者と知り合ったという益田市内の女性は、平岡さんが行方不明になったのと同じ10月に、直接会ったという。丸刈りに近い髪形で「ネットでは楽しげにやり取りしてたけど、現実にはあまりしゃべらなかった」。

 最後の書き込みは平岡さん不明から6日後の09111日。「一般家庭の消費電力について調べています」。事件をうかがわせる記述は一切なかったという。

 こうして7年がかりで犯人を特定したのは、警察の執念の捜査のたまものといえよう。

 なお、結果論ではあるが、事件発覚当時、関西国際大の桐生正幸教授(犯罪心理学)は、こう述べている。(091113日付朝日新聞朝刊より)

 「女性が被害者になった過去の同様の犯罪例から、単独犯と考えるのが自然ではないか。日本では戦後、遺体を切断する事件が100件近く起き、その9割以上は証拠隠滅が目的だった。今回は、山中に遺棄しているとはいえ、見つかりそうな場所で、埋めてもいない。遺体の損傷具合などの報道をみる限り、むしろ、遺体を損壊すること自体への犯人の思いがうかがえる。もしそうならば、日本ではまれなタイプの事件だ。現場からの証拠を積み上げて犯人に迫る従来の捜査に加え、類似事件のデータから犯人像を浮かび上がらせるプロファイリング(犯人像推定)捜査も必要だろう」

 上述のように、捜査本部が「島根県を中心に素行に問題があった人物の洗い出しを改めて進めた」ことが、犯人特定につながっている。「素行に問題」とは、つまり、性犯罪の前科といえよう。性犯罪という犯人像から洗うというのは、桐生教授のいう「プロファイリング(犯人像推定)捜査」といえる。

 なお、桐生教授は「現場からの証拠を積み上げて犯人に迫る従来の捜査に加え」、「プロファイリング捜査も必要」といっている。

 前者については、島根県警の杉原捜査1課長は20日の会見で、矢野容疑者が島根県内に短期間しか住んでいなかったことや、平岡さんとの接点が全くなかったことから、捜査が長期化したと説明し、「1万足の靴があれば、1万足調べるのが捜査。足元から捜査を広げる中で、無駄は一つもなかった」と繰り返し述べているように、丹念にやってきたのだろう。

 つまり、日本の警察にとって、足元から、とは違う手法の「プロファイリング捜査」が、今後の課題といえよう。

 また、1221日付同紙朝刊によると、甲南大法科大学院の渡辺修教授((刑事訴訟法))は、こう述べている。

 「多角的な視野からの捜査をするには都道府県ごとの警察では限界がある」「異なる県で起きた殺人事件と交通事故死をいち早く結びつけるためにも、米国の連邦捜査局(FBI)のような広域捜査の体制づくりが急務だ」

 たしかに、犯人が他県である山口県で事故死していたことが、捜査が長引いた一因のようにも見受けられる。つまり、縦割りの弊害を取り除くことも、日本の警察の捜査上の課題といえよう。(佐々木奎一)


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2017年01月01日

神と猫と、たぬき


 今日は、「千と千尋の神隠し」「猫の恩返し」「平成狸合戦ぽんぽこ」を観た。
 特に、平成狸合戦ぽんぽこは、重い内容で考えさせられる。
posted by ssk at 22:32| Comment(0) | 随筆