平成二十九年一月二十月付、のauのニュースサイト
EZニュースフラッシュ増刊号の「朝刊ピックアップ」で記事
「台頭するポピュリズムと“衆愚政治のシンボル”」
を企画、取材、執筆しました。
18日付の日本経済新聞朝刊に「内向き世界 処方箋探る ポピュリズム台頭に懸念 ダボス会議」という記事がある。
それによると「世界各国の政府要人や多国籍企業の経営者らが集う世界経済フォーラムの年次総会が17日、開幕した。(中略)2016年は増加する移民や自由貿易への抵抗感を背景に、英国が欧州連合(EU)からの離脱を決定。米国の大統領選挙で既存の政治家を批判するトランプ氏が次期大統領に当選するなど、内向き志向が強まっている。(中略)経営者からは開幕前や開幕直後に危機感のこもった発言が相次いでいる。『ポピュリズム(大衆迎合主義)の台頭は当然、ビジネスによいとはいえない』。16日にサイドイベントを開いたスイス金融大手UBSのセルジオ・エルモッティ最高経営責任者(CEO)はこう話した。『なぜ(大衆迎合に傾く)か、に耳を傾ける必要がある』」といった懸念の声があったという。
「ポピュリズム」とは「日本大百科全書」(小学館刊)によると、「大衆の支持を基盤とする政治運動。一般庶民の素人感覚を頼りに、政権や特権階級、エリート層、官僚、大地主、大企業などの腐敗や特権を正す政治エネルギーとなることもあるが、一方で人気取りに終始し、大衆の不満や不安をあおる衆愚政治に陥ることもある。(中略)ポピュリズムの特徴は、(1)理性的な議論よりも情念や感情を重視する、(2)政治不信や既存の社会制度への批判を背景に広がることが多い、(3)集団的熱狂、仮想敵への攻撃、民主主義の否定などに向かいやすい、(4)有権者の関心に応じて主張が変わり一貫性がない、(5)多くの場合一過性の運動である、など」とある。
ちなみに、現代民主主義の「源流」である古代アテネの民主政治について、6、9日付の当コーナーで触れたが、アテネでは、ポピュリズム=衆愚政治が横行していた。
古代アテネは前5世紀半ばには黄金時代を築いたが、その後ペロポネソス戦争をさかいに無定見な民衆による衆愚政に堕し、前4世紀には衰退した、というのが通説である。
が、「民主主義の源流 古代アテネの実験」(著: 橋場弦/講談社刊)は、この通説を否定している。例えば、「『衆愚政』ということば自体、(中略)特定の立場から何かをそしるときに用いるレッテルであって、あることがらを客観的に説明することばとは言えない」と批判している。
このように否定的な同書でさえ、「衆愚政の醜態と非難されてもしかたのない悲劇」としてクローズアップしている事件がある。それは「アルギヌサイ裁判」という。同書には概要次のにようにある。
紀元前431年から、アテネとスパルタが、ギリシアの覇権をめぐるペロポネソス戦争を起こした。その後、デマゴーグと呼ばれる主戦民主派のリーダーたちは、いたずらに支配欲をあおり立て、スパルタ側からの和議の申し出を蹴ったり、開戦後10年には、いったん和平が成立したのに、デマゴーグが盛り返して戦争再開したり、前415年にはアテネが空前の規模の海外遠征を企て、シチリア島に大軍を派遣したが、大失敗に終わるなど、アテネはその支配権をじりじりと追い狭められていった。そして、前406年、死に物狂いのアテネは、残された総力をあげて決戦に挑む。これはアルギヌサイ群島付近で行われたため、「アルギヌサイの海戦」という。この決戦にアテネは勝利した。がしかし、戦争に勝ったあと、海戦により漂流した味方を救出しようとする中、にわかに季節外れの暴風雨が襲い、波にのまれてしまい多くの漂流した味方の兵士が海の藻屑と化した。
ことの次第を聞いたアテネ民会は、憤怒した。決戦には勝利したものの、多くの将兵の命が失われた惨劇の責任は、現場の将軍たちにあると考えたからである。
将軍6名(その他に2人いたが、責任を取らされて殺されるのを恐れ国外逃亡)は帰国後、逮捕拘留され、「弾劾裁判」で「民会」に引き渡されることとなった。
「民会」とは、アテネ民主政の最高議決機関。約6千人が収容される民会議場に市民はだれでも集まり発言する権利をもち、一人一票の投票権を行使した。民会では、軍事行動の決定などの外交問題、戦時財政、国会に対して功績があった者に対する顕彰決議、外国人への市民権授与決議、国の基本法の制定、改正などを決議、将軍や財務官の選挙などを決議した。
「評議会」とは、30歳以上の市民が、ランダムで10個の部族と呼ばれる結社に分かれ、一部族ごとに50人ずつ、計500人が抽選で選ばれた。任期は一年で、二期以上連続就任はできず、生涯に二度までしか評議員にはなれない。評議会では、国家予算や教育などの重要事項を決定した。
そして、評議員のうち各部族がひと月交替で当番評議員を務める。当番評議員は、民会と評議会の議長団を兼ねた。議長団には、例えば、議案を採決にかけるかどうかの最終決定を議長団の合議により決める、といった、いわば現在の議長のような役割があった。
「弾劾裁判」とは、「(1)民主政転覆ないしその陰謀、(2)売国罪、(3)民会や評議会での動議提案者の収賄」という国家の存立にかかわる重大国事犯を裁く場。
弾劾裁判にかけようとする者は、まず民会か評議会に告発して訴えを受理してもらう。告発する資格は、原則どの市民にもある。この告発を受けて、民会は、審判を民会と民衆裁判所のいずれで行うか等決める、というもの。
こうして6人の将軍が弾劾裁判にかけられた。なお、告発した顔ぶれは、将兵救助の任務を負って果たせなかった将軍2人だった。非難の矛先をかわすため告発した。
こうして民会に引き渡された将軍6人は、当時の状況を説明し、すべては人知の及ばぬ自然現象のもたらした不運の結果である等と弁明した。民衆はそのことばに動かされたが、このときすでに夕闇が議場を包みはじめ、挙手判定が困難となった。そこで、民会はつぎの集会に持ち越すこととし、それまでに今後の弾劾裁判の手続きをどうするかの案を提出するよう評議会に要請して散会した。
ところが、ちょうどこの時期、アパトゥリア祭という、アテネ市民の結束を確認する祭りがあった。ここには海戦で落命した遺族たちもやってくる。当時の人々にとっては死者が故郷の土に埋葬されぬというのは、このうえなく恐ろしい不幸で、まして異国の海に遺体を漂わせ魚の餌になるなど、想像するだに耐え難いことだった。
告発者とその仲間たちは、この機を逃さず、遺族を装って祭りに現れ、遺族たちの感情をあおり、つぎの民会にかならず出席して将軍たちの弾劾に賛成するよう説いて回った。
同時に彼らは、評議会に工作し、違法な評議会提案を成立させるのに成功した。それは、前回の民会ですでに告発と弁明は行われたのだから、今度の民会では一切の審理を行わず、ただ一回の無記名投票により、将軍たちを有罪か無罪か判決を下すべきこと、しかも、8人は一括して判決を下すこと、有罪となれば即刻全員処刑して財産を没収すること、というもの。
本来は、被告は別々に裁判を受け、めいめいの罪状に応じて刑が定まることになっている。つまり、告発と弁明の審理を行わず、一括して裁くというこの評議会案は、当時の常識に照らして極めて異常で違法な内容だった。
かくして再び召集された民会では、怒りをあらわにした遺族たちが詰めかけ、興奮した市民達が怒号を発する尋常ならざる雰囲気のなかで開会した。
さっそく評議会提案が動議された。その主旨に驚いた一部の市民達が、手続きが違法である、として異議申し立てに立ちあがった。がしかし、感情をあおられて激昂している多くの市民たちは、逆に彼らを恫喝し、異議を取り下げねば将軍たちもろとも被告席に座らせるぞ、と脅した。彼らの言い分は「たとえ何であれ、民衆(デーモス)の望むことを実行するのを妨げるのは、けしからぬことだ!」だった。やむなく異議は取り下げられた。
次に違法手続きに抵抗したのは、民会の議長団を務める当番評議員たちだった。彼らの一部が、本来の責務に従い、採決にかけることを拒否した。しかし、同様の脅迫を受け、ついに採決に同意した。なお、このとき、最後まで採決に反対したソクラテスは、のちに、こう回想している。「あのとき当番評議員のなかで、市民たちに反対し、法に反するいかなることを行うのも拒絶したのは、私一人だけだった。登壇して提案を動議する人たちは、私をいまにも告発し逮捕しかねない勢いだったし、市民たちもそれを命じ、怒声をあげていたけれども、私はそのときこう思ったのだ。投獄や死刑を恐れ、付和雷同して不正なことを決意するよりは、むしろ法と正義とともにあらゆる危険を冒すべきである、とね」(プラトン「ソクラテスの弁明」三二B-C)
こうして民衆は異様な興奮にうながされ、違法手続きにより即座に判決に移った。議場には二種類の壺が置かれ、一方は有罪票が、他方には無罪票が投じられる。結果は有罪。6人の将軍はただちに処刑された。
なお、信じ難いことに、市民たちはほどなく自分たちのしたことを後悔しはじめる。多くの優秀な軍事指揮官を一挙に失ったためだ。そして、民会を扇動した人物たちを告発すべく逮捕し投獄したという。
同書には、「この種の事件が、ペロポネソス戦争中にしばしば発生したことは事実だ」とある。
ひるがえって日本をみると、どうであろう。
昨年、舛添要一・東京都知事が、別に違法行為をしたわけでもないのに、週末に湯河原の温泉に行っている、とか、政治資金で美術品やたまごサンドを購入した、といった、愚にもつかない話で、新聞、テレビ、ラジオ、ネットといったあらゆる媒体が、辞めろ、とか、逮捕しろ、などと連日連夜はやし立てて民衆をあおり、民衆の多くは感情的になり、与野党の政党の国会議員や地方議員、全国の首長といった政治家たちは、民衆の顔色を窺い、舛添を寄ってたかって罵倒し、ついに舛添氏を屠り、政治生命を抹殺した。
要するに、古代アテネの“衆愚政治のシンボル”「アルギヌサイ裁判」と、「舛添集団リンチ辞職事件」は、似ている。
つまり、日本も、衆愚政治の只中にいる。(佐々木奎一)